中央の教育界で活躍し、信州教育の発展を切望した

澤柳政太郎(サワヤナギ・マサタロウ)

 

1 生い立ち、略歴(1865~1927)

 

 松本藩士澤柳信任の長男として松本の天白町で生まれた。幼少の時期に父親の仕事の関係で山梨の甲府に行き、徽典館に入ったが、1年足らずで松本に帰り開智学校へ編入。11歳の時に上京し、以後63歳で死去するまで東京に住む。この間、文部省官僚として文部大臣秘書官、文部次官などを務め、貴族院議貝、第一高等学校長、東北帝国大学初代総長、京都帝国大学総長などを歴任。
 大正6(1917)年には私立成城小学校を創設。その前年、同じ松本出身の辻新次の後を受けて帝国教育会会長に就任し、死去するまでの11年間任にあたった。

 
2 教育界での活躍や業績

 

 日本の中枢で活躍する澤柳は、大正3(1914)年、松本市教育会で開いた講演会に講師として参加した。演題は「日本の過去及将来」で、「明治年間の発展と四目的の結了」について述べた。澤柳はこの中で、次のように語っている。

「明治時代は4つの大目的があり、その上にたって大発展をとげてきたが、日露戦争後はその目的も実現されてしまったために、政府や国民は目的を失ってしまった。その結果、社会の根底までもが動揺をおこし、個人思想が盛んとなって国家の基礎まで影響を及ぼすような思潮まで生まれるようになった。」

「しかし、大正期に入り的確な目的が定まらない現状の中で、次代国民を教養するための教育者の責務は重大である。特に信州に生まれ肩身が広いのは、生糸産額の多いことと教育事業が他府県に比して頗る進歩していることである。しかし近年の信州教育は下り坂にあるという話を聞くにつけ遺憾に思っている。過去における信州教育の名声を失墜しないよう、特に松本教育会に切望する。」
 自由教育を標梼していた松本出身の澤柳のこの講演は、教師たちに深い感動を与えると同時に、背筋を伸ばしてしっかり教育にあたらなければならないことを教えてくれる貴重な講演内容であった。
 澤柳は、松本高等学校設立にあたっての労も大きかった。その地鋲祭に参列した澤柳は、「日本に高等学校はたくさんあるが、日本アルプスという霊山の大気に朝夕育まれて剛健なる気風を養うことは、松本高等学校の特性である」と語ったという。中央で活躍しながら、常に信州の教育が向上するようにと心を払っていた澤柳の姿がここに垣間見られる。
 さらに、教育の理想と行動を一致させようと考え実践した澤柳の業績は、松本や長野県の教育にとどまらず日本の教育界を支えてきたといえる。


引用文献
『松本市教育会百年誌』
『松本市教育会百十年のあゆみ』
『松本市教育百年史』