国家の教育政策の遂行に寄与貢献することになりました。
 この支部結成にあたり、西尾実は、「学問が国政と一体化せず、教育がこの戦争と一本にならないやうな部分があるとすれば、それは現代に存立する資格のない学問であり、教育である。」(「神州教育態勢の確立」)と説いています。
 大日本教育会長野県支部の結成にともない松本市教育会は解散し、大日本教育会長野県支部松本分会となりました。松本市教育会は、昭和20年4月21日、源池国民学校で松本市教育会および信濃教育会松本部会解散式ならびに大日本教育会長野県支部松本分会結成のための臨時総会を開きました。解散式のあと松本分会の結成式が行われ、組織づくりがなされ、分会長には一志茂樹(閃智国民学校)、副分会長には大森栄(松本高等女学校)がなりました。また分会内には、事業遂行のために、専門部会と専門委員会が置かれました。専門部会は、幼児保育・国民学校・青年学校・中等学校の各部会と、女教員会があり、また、専門委員会は必要に応じて設置され、昭和20年度は、学徒動員・軍人援護教育・健康教育など12の委員会がつくられました。

(4) 戦時教育令の実施

 昭和20(1945)年5月に出された「戦時教育令」に基づき、学年学級を単位として、一個大隊または数個大隊の学校学徒隊が結成され、学徒隊長には学校長、副隊長には教頭または首席訓導がなりました。この学徒隊は軍需工場の生産防衛を担い、教職員学徒が一体となって戦力増強の実をあげるよう組織されたのです。
 戦局の悪化により、校舎も東部第50部隊の宿泊所や軍事工場の一部となりました。国民学校は、教室・武道場・屋内体操場などが軍用に転用できると定められました。松本盲学校の場合は、太平洋戦争終結までに再三にわたり、部隊宿泊所として使われました。また、松本陸軍病院へのマッサージ治療の勤労動員令が出され、職員はじめ児童生徒は治療に出かけました。
       松本盲学校生徒の奉仕治療

 当時の生徒は次のように語っています。 「遠足に行った時など、食べられる草は摘んできて汁の中に入れたり、雑炊にしたりして食べました。水が不足して横田の方までリヤカーに大きな桶を積んで水をもらいに行ったこともあった。寄宿舎には、のみ・しらみがいて、冬など半日くらい援業をつぶしてしらみ退治をした。当時、学校では暖房施設が不足していて、ストープは職員室、治療室、小学部の3か所ぐらいしかなかった。寒かったね。戦争が激しくなって、職員室が工場となり、戦争も終わり近くになると無期休校となって、みんなまた会えるかどうか心配だったことを覚えています。」

            (花岡 祐吉)
 
(1) 国民学校制度の実施

 昭和16(1941)年3月1日、「国民学校令」が公布され、今までの尋常高等小学校は国民学校に改められました。「皇道の道」に則った教育の方向がはっきり示されることになったわけです。開智国民学校でも「皇国民の錬成」のために、夏の短縮授業を廃止し、この時間を鍛錬の時間にあてました。国民学校は初等科6か年、高等科2か年、計8か年でしたが、松本市は清水高等小学校に高等科を置き、他の7校はすべて初等科のみで国民学校が発足しました。その後、両科併置に利点があることから、昭和19年度から市内全国民学校に高等科が併置されることになりました。
 国民学校制に伴い、松本市教育会は国民学校教科研究委員会を発足させました。しかし、郷土史委員会、修身委員会等9つの委員会も昭和20年度には決戦下の状況のもと、3委員会のみとなりました。
 また、松本市教育会は、会則の改正を行いましたが、18年度は会の目的も国家の要請に応える形となり、教育会の事業も「国家ノ必要二基ク」ものとなっていきました。

(2) 戦時教育の姿

 昭和16年12月8日、宣戦の詔書が発せられると、市内各学校ではその翌日に詔書奉読式が行われ、また、松本市教育会も、12日の午前7時、四柱神社前で「詔書奉読式並戦勝祈願祭」を挙行し、これには全会貞が参列しました。17年1月には毎月8日を「大詔奉戴日」とすることと定められました。第1回は同年1月8日、この日の鎌田国民学校は第1時限に宮城造拝・皇軍将兵への感謝と英霊に対する黙頑・国歌斉唱・詔書奉読・校長訓話の式次第で詔書奉読式が行われました。
(表1)会員の出征人数
年 度 人 数
昭和16 6人
17 1
18 2
19 23
20 7
(「教育会綴」「会誌」)
 戦局が激しくなるにしたがい、会員の中にも応召され、兵士となって出征していくものがしだいに多くなってきました。学校では武運長久を祈って壮行会を行い、児童生徒は松本駅頭で見送りをしました。市教育会では出征会員には餞別5円を呈しています。市は戦死した兵士の市葬を行いましたが、市教育会では弔詞を呈するとともに、児童生徒を参列させました。一方、各学校では忠霊室を設け、そこに通学区出身兵士の英霊を祀り、遺品を並べ機会あるごとに児童を参拝させました。
 昭和19(1944)年8月11日、東京都世田谷
区北沢国民学校児童318名、太子堂国民学校児童634名の疎開児童第一陣が松本に入りました。駅頭では地元関係者はじめ市内9国民学
校の6年生が代表として出迎えました。松本市および浅間温泉への疎開児童の受入れは、8月14日の三宿国民学校425名、中里国民学校407名を最後にすべて完了しました。

(3) 松本市教育会の解散

 昭和19年、信濃教育会は決戦下における教育翼賛体制の国家的要請に応えるために発展的に解散し、大日本教育会長野県支部となり、
=昭和時代=
11 太平洋戦争の敗戦直前に松本市教育会は解散し大日本教育会長野児支部松本分会となりますが、そのころの様子を教えてください