教育会長挨拶

 松本市教育会は、明治17年より続く伝統ある組織です。地域の教育を豊かにするため、教員が自主的に交流や研修を通して築き上げてきた松本市の教育基盤は、「学都松本」と言われる所以の一端です。本会を代表しまして、会長がご挨拶申し上げます。


本当のもの、一番大切なもの、根本にあるもの

令和5年度松本市教育会会長  山口 真一 (清水中学校)

「みんなと過ごして、もう三か月が経とうとしていますね。時を戻すことはできませんが、こうしてみんなと笑い合って、学習することが僕にとっては、毎日が楽しいです。」

 

 上記の文は、本校の生徒が中学校へ入学してから三か月経ったいまの素直な思いを生活記録に綴った文章である。

 コロナの感染症法の位置付けが変わり、ようやく活動制限のない学校生活が戻り、子どもたちのよりよい自分になりたい、またよりよく共に生きたいという本来深淵にあるものを大事にしたい。強くそう思う。これを読まれている方も同じ心情で共感してくれることでしょう。

 

 さて、松本市出身の有名な教育学者といえば、澤柳政太郎氏は間違いなくその一人であろう。澤柳氏は、慶応元年(1865年)4月23日、信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・澤柳信任の長男として生まれた。ちなみに、小学校は長野県開智学校下等小学校(現開智小学校)に入学したが、東京師範学校附属下等小学校へ転校した。

 帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学哲学科を卒業。1890年に文部省に入省、同年に文部書記官となる。そして、中学校、高等学校の校長を歴任後、再び一八九八年に文部省に戻った。そこで、1906年(明治39年)から二年間文部次官のときに、小学校令を改正し、授業料を無償化、また義務教育を六年に延長した。その功績は大きい。また、成城学園を創立させ、真の教育は小学校教育にあるという信念を持ち、「個性尊重の教育」「自然と親しむ教育」「心情の教育」「科学的研究を基とする教育」という四つの綱領を掲げ、理想とする初等教育を自ら実践した。そして、子どもが本来持つ豊かな天分を伸ばすための教育を標榜し、自学自習や少人数教育に力を入れた。他にも、試験の成績を児童の評価に用いないなど、実験的な試みも盛んに行い、劇や音楽などの芸術教育を重視したと云われている。

 簡単に、澤柳氏の足跡を記したが、今回の特集に取り上げている「学都松本のシンカ」元年と重ねて考えると不思議な巡り合わせを感ぜられる。

 令和4年2月14日に策定された松本市教育大綱のなかに、次の一文がある。

「松本市は、子どもを主人公とし、その学びを地域社会全体で支えること」を学都松本の根本に据え、先人達が築き上げてきた礎のもと、「学都松本のシンカ」に挑んでいきます。

松本市の教育も澤柳氏が主張した教育も一人一人の子どもの尊厳を大事にし、個を生かす教育、つまり「個性尊重の教育」である。

 更に、澤柳氏の教育哲学と現代の教育を比べてみると、まず「子ども本来が持つ天分を伸ばす教育」を澤柳氏は標榜している。これに対して、令和の日本型学校教育の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)の概要には、一人一人の児童生徒が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となる教育の実現が必要であると記され、根本は全く同じである。

 

 先人達の一人である澤柳氏が、1927年12月24日、62歳の若さで亡くなられて、96年が経った今。

私たちは、常に究極の心理、至高の境地を求めていかねばならない。これは、澤柳氏の座右の銘「所求第一義」から導かれた礎(いしずえ)である。

 

 最後に、私は子ども一人一人の興味や関心、発達や学習の課題等を踏まえ、それぞれの個性に応じた学びを引き出し、一人一人の資質・能力を高めていくことが重要であり、個性尊重の教育はこれからも大切にしなければならないと思念している。

 

 すべての子どもが安心できる居場所となる学校、笑い合って楽しく学べる学校

 そんな学校をみんなで創っていきましょう。