多大な業績を残した松本小学校長

三村壽八郎(ミムラ・ジュハチロウ)

 

1 生い立ち、略歴(1869~1925)

 

 明治2年(1869)、北条村(現南安曇郡梓川村)に生まれる。長野県師範学校を明治24年(1891)に卒業後、北安曇高等小学校、大町小学校、梓高等小学校を経て、明治31年(1898)松本尋常小学校主席訓導となる。明治34年(1901)、同学校長に抜擢され、以後、大正11(1922)年までの約20年間在職し、数々の業績を残した。

 

 

 


2 主な業績

 

 三村壽八郎は、22歳で長野県尋常師範学校を卒業してから、北安曇郡北安曇高等小学校池田分教場訓導となり、教育者としての一歩を踏み出した。その後大町小学校、松本小学校、梓小学校へと転じた。特に梓小学校への転任は、校長太田鶴雄の懇請によるものであった。三村が在任したのはわずか3年間であったが、軍隊組織という訓練法を学校に取り入れて学校改革を試み、たちまち梓小学校を県下の模範学校にしたという。

 三村が再び松本尋常高等小学校に赴任したのは、日活戦争後の明治31年(1898)。当時の校長寄藤好音が、学校職員の「因習にとらわれ進取に乏しい」気風一新のための有力な協力者として、三村を主席訓導に迎えたのである。
 三村は男子部の部長となって、校長を補佐して、次々と校務の大改革を行った。生徒の組織を改めて、男子部に軍隊組織・女子部に班長組織を導入、児童組合による校外監督の実施、校訓・校歌・徽章・教育要義・校旗の制定、「父兄懇話会」の実施、修学旅行の創始、などによって学校の充実を囲った。現在、保護者懇談会はごく普通に開催されているが、懇話会が松本小学校で全国に先駆けて実施されたのは特筆すべきことである。
 明治34年(1901)、三村は、寄藤校長が文部省へ転出した後を受けて、後任校長となった。それ以後20余年にわたって、全国的にもまれに見る、松本市内に一つの小学校という「一市一校制」の大規模校の校長として、松本教育の発展のために心血を注いだ。

 松本小学校長時代の主な業績を以下に示す。
・明治天皇玉座跡の保存・戦役紀念館の創設・児童の伊勢大廟の参拝の創始
・乃木室を特設し乃木希典の偉徳をたたえる・幼稚園の独立・松本訓盲院の附設
・実業補習学校の附設・子守教育所の設置

・松本女子職業学校の附設
・特別学級(貧困その他の事情から普通学校に通学できない児童のための施設)の創設
 三村は一方で度量広大であり、教職員の意見・批判に熱心に耳を傾け、それを学校経営に生かしていった。その結果、三村校長を中心として、全校児童7000名、職員150名の多数を有する松本小学校は協力一致して教育の実を挙げていたという。
 大正11年(1920)6月、病気のため、22年に及んだ松本尋常高等小学校長を辞す。松本教育のひとつの時代が終わりを告げた。

引用文献
 『東筑摩教育会誌』
 『松本教育会百年誌』