=昭和時代=
     9 世界恐慌や満州事変や日中戦争のころの松本市教育会の
      様子を教えてください

満蒙開拓団青少年義勇軍の郷土訪問(昭和16年)

不払いや遅払いが皆無であったこと、それに他郡市との教員人事の交流があまりなかったことなどが考えられます。大正時代からの自由主義の思潮は、この2・4事件を実検に国家主義、軍国主義へと代わっていきました。
 昭和9(1934)年5月22日に県および松本市は歩兵第50連隊凱旋歓迎式を大がかりに挙行しました。この凱旋兵士の出迎えは4日間も続き、最後の夜には凱旋祝賀提灯行列が児童も参加して盛大に行われています。
 一方市教育会は、県からの『教育者ノ覚悟如何』という諮問をうけ『海外発展二関スル正シキ思想ノ養成』などを答申しています。
 このように、軍国主義の気風は全国的に拡がるとともに深刻化していったのです。

(3) 日中戦争下の市教育会

 昭和12(1937)年7月4日、日本と中国は北支で戦端を開き、戦線はどんどんと拡大しました。松本の第50連隊にも動員令が下り次々と中国に渡って行きました。
 旭町尋常小学校の日誌によると、12年8月7日に出動部隊を5・6年生が見送りしています。8月29日には第50連隊遠山部隊の第一次出征があり一、児童は終日5回に亙り見送りをしました。続いて10月22日には、第150連隊山本部隊が第二次の出征をし、前回と同様の見送りをしています。12月3日には北支で戦病死した遠山部隊の遺骨172柱を市内の各小学校児童が市民とともに迎え、翌日の告別式には市内の各小
学校長が列席しています。昭和13年2月には山本部隊の遺骨も出迎えています。同3月17日には支那事変戦病死者10柱の松本市葬が開智尋常小学校校庭で行われ、この時は市教育会長が弔詞を読み、各小学校の児童も告別式に参列しました。
 一方、戦気を盛り上げるため各種の旗行列や提灯行列などが華々しく行われました。昭和12年11月1日は、支那事変皇軍大捷祝賀旗行列が行われ、市内尋常小学校の5・6年生が参加し、4年生以下はそれぞれの通学地域の神社に参拝、戦勝祈願を行っています。
 また、12月13日には南京陥落祝賀旗行列が行われ、これには市内各小学校の4・5・6年生も参加しています。
 市教育会では昭和12年度信濃教育会の要請で会員相互の年賀状を取り止め、その費用を市の銃後後援事業にと市長に拠出しました。信濃教育会にも「国防並他兵献金」を送金しています。また昭和13年度からは、市教育会の予算内に「支那事変関係費」を計上し、満州国視察員も信濃教育会とは別に派遣しています。

 
 昭和16(1941)年3月1日に国民学校令が公布され、小学校も4月1日から国民学校となり、太平洋戦争に入っていくのです。
                   (太田 弘泰)

(1) 世界恐慌下の市教育会

 第一次大戦後の不況が昭和期まで続きました。さらに昭和2(1927)年3月、関東大震災の手形処理に端を発した金融恐慌で銀行・企業の多くが破綻して不況は深刻となりました。さらに昭和4年10月の米国の大恐慌にますます影響され、日本経済は最大の危機に陥っていきます。生糸も米も暴落し、農家は壊滅的打撃を受けました。東北地方の「娘の身売り」とか全国的な「欠食児童」の話ほ、今でも語り草となっています。
 松本市も例外ではなく、欠食児童は大正末期より出始め、昭和3(1928)年から急増しています。旭町部の昭和5年の部会誌には、4年4組の教室から弁当がいくつか盗まれ翌日弁当箱や風呂敷が校舎の近くに捨てられていたという事件が記されており職員は教室で昼食をすることなどの管理方法も決められています。
 昭和7(1932)年、県は文部省から貧困家庭児童への給食費現金を受け取り、支給対象4,506名にのぼる児童一人当たりに、1日4銭の救護措置をとりました。昭和8年筑摩部、9年旭町部では「栄養丙児童」に対して栄養補給のために独自の給食を開始しています。
 農村部は地方自治行政と教員の理想的指向
との衝突の結果生じた笹賀事件が示すように不況の影響を強く受けていました。しかし、松本市は都市部でもあり、経済不況の影響は農村部ほどではありませんでした。

(2) 満州事変下の市教育会

 満州事変が昭和6(1931)年9月18日に勃発し国家主義、軍国主義へと拍車がかかっていきます。事変後1か月少々で、開智部の尋常5年以上の児童は満州派遣軍へ慰問状を送っています。6か月ほどの問に50連隊は4回出動しました。その度に児童は市民とともに見送りをしています。世論も学校も戦時に対する関心が高まっていき、翌年には満州事変記念日も制定されました。
 事変の起こった昭和6年以降、児童は出征軍人の見送り、帰還兵出迎え、遺骨出迎え慰霊祭、そして記念日行事などに参加しています。そのため授業も一時限、二時限で放課になったり、始業時間も遅れたりすることが多くなってきます。
 教師たちは給料の強制寄付や遅払いで生活も脅かされていました。弁当を持って来ない児童、学校へ萌をみせない児童それに高等科生の中途退学老を目の当たりにした若い教師たちは社会科学を学び教労長野支部を作り、政治・経済・文化・教育にわたる闘争を展開します。県の官憲は治安維持法事件として弾圧を繰り返し、昭和8(1933)年2月4日の大量検挙は教員赤化事件として世間を驚かせました。
 しかし、この事件の前後に「松高事件」が第一次から第四次とあった中で、松本市内の教員には検挙者が出ませんでした。それは農村恐慌の強い影響を受けなかったこと、俸給