(1) 新教育の理念と松本市教育会

 戦後、新教育が始まると松本市教育会は昭和21年に新教育研究委員会を組織し、理念的探究と実践的研究をおこないました。また、新教育の具体的実際的問題のための研究協議会や、基本的問題のための講演・講習会も数多く開かれました。さらに、指導要領に対応し教科の委員会が設置され活動するなど、教育会が中心となって、新教育の理念と方法を少しでも早く確実に見出そうと諸活動を展開しました。

(2) 松本市教育会総集会

 戦後の混乱期と、30年代前半の教育会と教組の一本化論がくすぶっていた頃は会員の教育会離れが総集会への出席率の低下となって現われてきました。このため、総集会の持ち方について毎年会員の意見要望を聞き、総集会の改善に努めました。一日を半日に、土、日の公休日をさけるなどの開催日の工夫、視察報告(25、28年)、テーマを決めての会員の研究討議(パネルディスカッション、23、26、34、37、38、39年)、教科(中学)、学年会(小学校)専科、養護の班別研究会(35、36年)など会員の意見発表の場もいろいろ工夫しています。

(3) 各種委員会の活動

 昭和20年代前半は終戦後の占領下にあって日本が新しく生まれ変わろうという社会情勢を反映し、開拓少年援護・物資配給・新教育・学制改革・週五日制など現在は見られない委員会が中心でした。
 昭和33(1958)年に指導要領が改訂され経験主義的な教育の方向から教科・分野性の確立をめざし精選系統化の方向に、二領域が四領域へ、指導要領が「教育課程を構成する時の重要な資料‥‥‥教師の仕事を補するもの…」から「小中の教育課程の基準…」と大きく変わりました。これをうけ松本市は早急に新指導要領の精神を理解し、松本市全体として新C.Sにそった統一的な各教科の年間指導計画を作ることになりました。この仕事を教育会の教科の委員会が中心になって行うことになり、34年に全教科の委員会が揃いました。年間指導計画の作成(34、35年)、指導計画の実証的研究(36、37)指導計画に基づく指導法の研究(38、39年)を委員会が中心となり全市をあげて行いました。
 教育課程研究協議会は36(1961)年より毎年おこなわれてきました。国、県の指定校は主体的に受け、指定以外の教科、特活等は市の指定校としました。教育会は主催者の一つとして委員会が協議会の推進、研究を中心になってしいました。文部教研と言われる教育課程の審議と組合の教研集会参加レポートの審議が委員会で一緒に行われており、教育会が研修の場としてどちらも大切に考えていた姿をうかがうことができます。

(4) 県外視察
 下のグラフ1の様に全体的には増加してきています。これは教育会が補助金をふやすなど県

=昭和時代=
     13 昭和20年代30年代の松本市教育会はどのような活動をし
       たのでしょうか
外視察を大事に考えていたためと思われます。

(5) 講演講習会

 中央から講師を招いて時局、文化、社会、経済についての講演会や会員の教育専門職としての職能の向上を目的とした講習会、研修会が盛んに開催されました。

(6) 同好会

 認定講習が廃止された29年から急に多くの同好会ができてきました。自主的に下から盛り上がった同好会活動が活発に行われるようになりました。

(7) 免許法認定講習会

 新学制が開始され、昭和24年に教育職員免許法同施行法が施行されました。県内には無資格教員、上級免許状取得希望の教員が多数いました。25年から県教委は単位取得のための認定講習会を開始しました。市教育会も認定講習と認め
られた研究集会、講習会を数多く主催し会員の免許取得に努めました。

(8) 刊行物の発行
 24(1949)年に郷土資料双書第一集「統計集」第二集「松本市白地図」が刊行されました。28年には第三集『松本市の姿』が3年半をかけ発行されました。29年に近接13か村を合併し郷土の範囲が広がったので30年に社会科資料委員会を発足させ2年間の研究調査をへて32年に『松本市の姿』を全面改訂し『私たちの郷土松本市』を発行しました。36年に「松本市とその近傍図」が刊行されました。
 29(1954)年に『就学前の教育』30年に『入学まえの教育』31年に『幼児の心理と生活』が発行されました。

(9) 教研集会 と教育会

 松筑地区教研集会は30年に松本市教育会、東筑摩教育会、県教組松筑支部の三者が共催して始まりました。42年に長頭組松塩筑支部も加わり以後四者共催で行っています。
 県教組は信教、高教組との三者共催による小中高大一貫した教研を目ざしますが「信教は認めない教研は教育防衛の場」とする高教組と「教研は教育現場の問題を解決する純粋教育研究の場」とする信教の対立は解けず、県教組の考え方により右の表になっています。

       (表1)県教研共催の推移
 31年・32年  県教組と信教
 33年・34年  県教組と高教組
 35年~37年  県教組と信教
 48年~  県教組と高教組

 松塩筑でも教研の共催問題について論議されています。40年代は高教組との共催に向け努力する姿勢が見られますが、54年以降は高教組との共催の姿勢はまったく見られなくなりました。

(10) 週五日制と教育会

 県軍政部(ケリー)の指導で23年より実施され、市教育会は委員会を設置しその実施方法や問題点などについて研究しました。しかし、戦後の貧困な地方の状況、文化施設及び指導者不足などから家庭や社会からの協力が得られず、ケリーが去ると27年をもって廃止されました。

(11) P T Aの結成

 米国教育使節団の意向をもとに文部省が22(1947)年にPTA結成を勧奨しました。23年には県下のほとんどの学校がPTAを結成しました。市教育会は24年にPTA研究委員会を設置し二年間活動しました。学年学級PTAの原点が研究されました。

(12) 信大統合問題と教育会

 32(1957)年市教育会は中信の教育会と協力し信大を総合大学として散在する学部を本部のある松本市へ統合する運動をおこしました。しかし他地域の反対が強く、教養部は松本、教育学部は長野で決着しました。
                   (横澤  正)