れました。
 興亜教育委員会は、各国民学校長ないしは教頭で構成され、各学校での興亜教育を積極的に推進しました。
 義勇軍送出委員会は、高等科担任で構成され、県から割り当てられる義勇軍の各学校への割り当てとその送出、拓務訓練の開催、教員への指導、啓蒙活動などをおこないました。
 昭和19年度の委員会記録をみてみましょう。義勇軍送出のための方策として(1)陸海軍少年兵および義勇軍への志願は、初等科のうちから家庭と連絡をとり、その指導にあたること、(2)義勇軍父兄会や現地視察談等機会あるごとに啓蒙活動に努めること、〈3)義勇軍だけの宿泊訓練ではなく、高等科全体を対象とした訓練を各校において実施し、団体訓練・共同生活訓練に修錬することなどをあげています。そして、各学校へは学年会において送出のための具体策を講じること、県拓務課には、義勇軍ポスターを作成し、宣伝に努めること、開拓映画会を各地で開催すること、義勇軍渡満の時期をはやめるなどの積極的な働きかけをしています。
 このように、義勇軍送出委員会は、義勇軍運動の中核的な役割りをはたしました。

(4) 教学奉仕隊・拓殖講習会への派遣

 夏期休業中の約1か月間満州で開拓訓練をうける義勇軍を視察する教学奉仕隊が県や信濃教育会を中心に全県的に組織されました。教育会では積極的に会員を派遣しました。小学校教員のなかでも、義勇軍送出に深い熱意があり、義勇軍郷土部隊編成に尽力している教員のなかから教員会が推薦をし、派遣をしました。細井昇(15年)、荻原晴雄(16年)、山田芳二郎・桐原義司(17年)、浅野次雄(18年)が視察にでかけています。

(表2)内原訓練所拓殖講習受講者氏名一覧表
昭和 学 校 名 職 名 氏  名 備 考
15 清水高等小学校 訓導 細井  昇 -
清水高等小学校 訓導 小松 思靖 -
17 清水国民学校 訓導 越  祓三 -
鎌田国民学校 訓導 池田 隆太 -
附属国民学校 訓導 北村  剛 -
清水国民学校 訓導 宮下  恵 自費参加
松本青年学校 助教授 百瀬 武委
鎌田青年学校 助教授 清水腎太郎
18 清水国民学校 訓導 渡辺 信美 -
鎌田国民学校 訓導 丸山 文雄 -
19 開智国民学校 訓導 小口 九郎 -
源池国民学校 訓導 北川 利雄 -
田町国民学校 訓導 本郷巳淳夫 -
筑摩国民学校 訓導 仁科 園生 -
旭町国民学校 訓導 神渾 速水 -
田川国民学校 訓導 宮島 良明 -
清水国民学校 訓導 浅野 次雄 -
附属国民学校 訓導 伊藤 光彦 -
20 清水国民学校 訓導 荒井  弘 -
田町国民学校 訓導 横山 元廣 -
田川国民学校 訓導 松尾  疏 -
松本青年学校 訓導 山田  寛 -
「昭和15年~昭和20年教育会綴」(松本市教育会議)より作成

 茨城県内原青少年義勇軍訓練所での拓殖講
習会にも高等科教員を派遣し、義勇軍送出のための中堅教員の養成につとめました。
 松本市からは、(表2)のように教育会からの推薦をうけ受講しています。

(5) 青少年義勇軍献本運動

 県は、現地満州にいる義勇軍の知的欲求を満足させるために教職員一人一冊あたりの献本運動を実施しましたが、教育会ではそれをうけ、昭和16・17年の両年献本運動をおこないました。16年には成沢中隊宛に221冊、17年には久保田中隊宛に421冊の書籍を贈っています。特に久保田中隊は、東西筑摩・南北安曇・松本市出身で編成された義勇軍で、幹部も源池小学校訓導木下達雄がなっていました。その関係もあってか、積極的な取り組みをみせます。
             (太田 秀保)
 
(1) 興亜教育大会の開催

 日本のアジアヘの侵略がしだいに拡大し、大陸への移動が国策となり、昭和13(1938)年から高等科2年生を対象とした満蒙開拓青少年義勇軍の送出も始まります。満州へ義勇軍を送り出すための教育が興亜教育であるといえます。長野県は、全国一の義勇軍送出県といわれています。興亜教育を積極的におしすすめたのが長野県と信濃教育会でした。
 信濃教育会は、昭和8(1933)年満蒙研究室を設置、昭和15(1940)年紀元2600年記念には東亜研究室と改称、拓殖教育事業・資料蒐集・興亜教育の三部門体制を確立、翌16年には、源池国民学校で興亜教育大会を開催します。全県から3,000名が集まり、各教育会からの意見をもとに、興亜教育振興・義勇軍送出のための具体策を討議しあいます。全国に先がけておこなったこの大会を「興亜教育に邁進せん 烈々挺身奉公を警ふ」と信濃毎日新聞も高く評価しています。
 開智国民学校高等科1・2年の時間割には、週1時間「興亜」があり、授業が実際おこなわれていたことがわかります。(『史料開智学校』第13巻)

(2) 義勇軍志願者への拓務訓練

 興亜教育大会以後、松本市教育会は、冬の厳寒期を利用し、水汲にあった県営運動場横の養莫堂で、義勇軍志願者を対象とした拓務訓練をおこないました。
 訓練内容は、義勇軍になるために講演や映画、教練や作業が取り入れられ、開拓精神を鼓舞するために義勇軍綱領を奉唱したり、朝夕の礼拝、食事での儀礼(みたましづめ、五穀の神々に対する感謝黙頑など)、日本体操(やまとばたらき)などがおこなわれました。訓練のおわりには、修了証と義勇軍章の交付があり、その場で義勇軍の選考もおこなわれました。
 教育会主催の拓務訓練は昭和20(1945)年までおこなわれました。19年の受講生は57人を数えます。この年市内の全国民学校に高等科が併置されるので、受講生は各学校から参加しました。その内訳は、閑智4、源池7、田町8、筑摩8、田川7、清水7、旭町6、鎌田8、附属2となっています。受講生57人のうち、15人が義勇軍となって翌年内原訓練所に送られていきました。
 松本市教育会から送り出された義勇軍の正確な数はわかりませんが、(表1)のようになっています。

       (表1)義勇軍送出数
昭和 松 本 市 東筑摩郡
県割当数 送出数 県割当数 送出数
12 - 4 - 14
13 6 22 - 164
14 30 5 237 83
15 30 5 237 40
16 東筑と
(300)
34 松本と(300) 129
17 35 20 150 111
18 30 12 140 102
19 25 7 130 88

『丸山中隊記』『郡市誌』『長野県教育史』
第15巻より作成()は、東筑・松本を合わせた数


(3) 義勇軍送出委員会の設置

 昭和17(1942)年には興亜教育委員会と義勇軍送出委員会をつくり、義勇軍送出に力を入
=昭和時代=
     10 興亜教育が盛んになって松本市教育会はどのようなこと
        をしたのでしょうか