表2)夏期講習会の内容
    (明治27年~36年)   一部

学 科 講  師 期  間 備  考
物理学 小林 盈 27.8.1~8.20 師範学校教諭
農 学 中村 鼎 中学校教諭
心理学 黒田 定治 高等師範教諭
教育学 渾柳政太郎 28.8.5~8.18 群馬県中学校長
植物学 矢渾米三郎 師範学校教諭
国語学 畠山  健 29.8.5~8.18 高等師範教諭
教育学 石田新太郎 慶応義塾教師
地理学 野ロ 保興 30.8. 高等師範教授
心理学 高島平三郎 31.8.5~8.14 学習院教授
倫理学 桑木厳翼   32.8.1~8.7 帝国大学教授 
人類学  坪井正五郎  33.8.5~8.19  帝国大学教授
動物学  丘 浅次郎  34.8.10~ 帝国大学教授 
 法制経済  松村茂助  36.8.1~8.14 文部省参事官 
                                         (「松本教育会記録」)

(4)冬期講習会

 東京にあった「帝国教育会」では学校の冬休みを利用しての講習会が開かれ、松本教育会からも大正3(1914)年には小岩井君人が受講しています。松本市教育会でも明治44(1911)年に12月24日から28日まで冬期講習会を開き延ベ250名もの参加者がありました。
 
(5)日本一の教育県 といわれたのは

 講習会や講演会を通して教職員の資質の向上を図り、また「子どもだけには教育を」という親の願いもあって就学率全国1位となり、全国から長野県へ教育視察者がやってきました。旧開智学校にある何冊もの「参観者名簿」には、長年にわたって参観者の住所氏名、所属まで克明に記録されています。それをみると、明治15年にほ20名の参観者があり、年を追って多くなり、明治45(1912)年には実に950名の参観者がありました。初めは県内の人々でしたが、明治39年からは急に県外の参観者が多くなり、明治45年には北海道45名、中部関東230名、近畿中国110名、四国40名、九州60名などのように、松本へ教育視察者が全国から集まってきています。

(6)教育会総集会

 総集会は春秋2回行われました。明治43(1910)年の春季総集会次第は(表3)のように、演説と講演のみと言ってよいでしょう。時間も午前9時から4時半まで行われたり、時には2日間も続けられたりしましたが、当時の総集会は研修一辺倒だったのです。

  (表3)総集会次第            
1.開会の辞
2.会員演説
3.会員5分間演説
4.本会派遣員講話
5.役員選挙
6.勅語奉読
7.講演
8.閉会の辞
 
                  (教育会記録)

(7)郡市連合会員運動会

 明治44年10月8日郡市職員連合運動会が松本中学校運動場で開催されました。プログラムには綱引き、二人三脚、暗算競争、竹馬競争など28種目があり、終わりには福引などもあって、職員は楽しい一日を過ごしたことでしょう。会員の親睦にも教育会ほ役立っていたのです。

(8)社交(教育)クラブの設置

 明治45年度の総会議事録には「会員ノ集会及ビ娯楽場トシテ社交クラブヲ借入、年額36円ヲ支出スル」と議決しています。場所は不明ですが現在の教育会館の走り的役目を果たしたのでしょう。教育や文学哲学を論じ合う姿が目に浮かびます。 明治のころの様子を知ることができたのは克明な記録からです。私どもも未来のために記録を残す義務を感じます。
                   (赤羽  保)
=明治時代=
        3 明治時代の教育会はどのような活動をしていたのですか
(1)教育会の活動概要

 明治時代中期になって日本の教育が急速に進展したのは、教育会の活動があったからこそと思います。これを裏付けるように、明治18(1885)年に教育品展覧会を開催しています。また講演会、講習会、県外視察などは、最重要事業として位置づけられ、昭和前半に至るまで継続されました。現代にも明治時代の教育会会員の願いが形は変化しても引き継がれていることがよく分かります。

(2)講演会には休校しても

 教育会として初めて開催した講演会は明治19(1886)年の記録に残されています。

(表1)松本教育会講演会の一部
(明治) 演   題 講  師  名
19.7.8 理科学の応用 工学士  
石川古次郎
獣医学の必要 農学士 
 根 忠一郎
23 新案教授衛 目賀田亥三太
31.8.8 漢字の起因 渡辺  敏
39.5.7 教育者の永久的感化 飯沢友一郎
42.5.9 時代の趨勢と教育 女学校長 
三輪田 元通
42.6.17 色彩教育について 菅原 教造
42.10.30 実験心理に関する実験方法 吉永 夜道
45.5.26 信・愛・望 文学士  
松涛 泰戴
現代欧州に於ける教育界の傾向 谷本  富
                                          (「松本教育会記録」

 (表1)は明治時代に開催された講演会の一部ですが、明治初期のころは講師を依頼するにも、中央(東京)からは交通が不便なこともあって大変だったらしく、地元の学者文化人を依頼して開催しています。明治後半になると鉄道の開通、道路の整備などで、講師を遠方から依頼することができるようになり、1年に3回も講演会を開催したこともありました。
 講演会の聴講者も始めのうちは教職員が少なかったこともあって300名程でしたが、明治40年頃になると1,000名を越す、大講演会になったこともありました。
 参集範囲も、東筑との連合教育会ということで、今の「松塩筑」から汽車で、自転車で徒歩で集まったことでしょう。私の小学生の頃(昭和10年ころ)でも「今日は先生全員で松本へ行くから半日授業です。」とか「明日は総会だからお休みです。」などと言われ、先生方が汽車に乗って行くのを見たことがあります。
 演題を見ても分かるように、学校教育に関することばかりでなく、学識研修についても多くの講演があり、こんなところから信州教育が芽生えてきたのではないでしょうか。

(3) 夏期讃習会

 明治時代には東筑と連合の講習会が開催され、中でも夏期講習会は盛大なものでした。明治27(1894)年交詢会主催によって最初に開催されてから、昭和18(1943)年まで一度も途切れずに開催されていることは、教育会記録を調べても確かであり、敬服してしまいます。 
(表2)でも分かるように、1週間も行われています。ある時は20日間の記録も残されています。主催者の挨拶の中に「講習会参加者ハコノ成果ヲ自校ノ教育向上二寄与スべシ」とあるように、このような講習会の参加者が各学校へ帰り,リーダーとなって、教科研究会などをもつようになり、現在にもひきつがれています。この起こりは明治時代にあったのです。