=昭和時代= 
   14 昭和40年代50年代の松本市教育会はどのような活動をしたの                            

     でしょうか

(1)教育会事業内容の大変革

 下の表のように、40年代には各種委員会の設置に大きな変化が見られます。その1つは昭和44(1969)年教科・道徳等の研究委員会が全廃されて、教科研修実施委員会により計画された実技中心の研修会に変わったこと、2つめは、昭和44年前後に家庭教育等新しい委員会が誕生していること、3つめは、全廃されたほずの教科指導に関わる研究が昭和48(1973)年に復活したことです。
 その他、年に一度の総集会も、昭和47(1972)
年教特法が施行された年から、終日が半日に会場も旧松本市内小中学校から公共施設に又、レクリエーションがなくなるなど日程、内容が変わりました。現在の教育会の活動内容のルーツは昭和40年代にできたといえます。

(2) 教科研究会から教科研修会へ

 昭和40年代初期の教科研究は、①年間計画改定に対する協力、②各教科の指導法や内容等基礎的研究、③教師の指導力向上のための実技研究に分かれていました。
 その頃の研究は、各教科とも独自のテーマを据え、自由な発想により進めていましたが、中でも目を引くのが、系統学習的色彩の強い研究です。「何を」「どのように」「どの程度に」と、学年別、単元別に内容や範囲を系統的に位置づけた研究でした。より効果的な学習展開をねらったものでしたが、各学校から、「現場で生かされにくい」「研究が校内と重なり大変」等意見がだされていました。「各較の研究を第-に考え、しかも現場に密着した研究を」と、大英断で実施されたのが、昭和45(1970)年の実技を中心とする研修会です。
 この年、教科研修会と名も改められ、小学校は、東・西・南・北の四ブロックに、中学校は各教科ごとに分かれ、全員参加のもと研修会が開かれました。会員には、「具体的に学べた」「体感できた」等好評で3年計画が延期され、現在に至っても実施されています。
 なお、昭和44年前後の委員会(家庭教育・個性能力開発教育等)や48(1973)年の教育課程諸委員会の誕生は、社会の変容や能力の多様化に対応する指導の必要が叫ばれてきたことや、授業と結びついた研究の大切さが見直されたためでした。

(3) 教育文化センターの設立

 松本市教育会には、教育会の建物はありませんでした。発足当時の会則には、「郡役所
内小学督業詰所ヲ借用…」とあります。この借用する型がずっと引き継がれ、会長在任の学校に事務所が置かれていました。
 昭和30(1955)年頃、各種研究調査委員会の数が増加し、「独自の教育館を」の声が高まってきました。それがより高まったのは昭和40(1965)年で、設立委員会が初めて設立されましたが進展がみられませんでした。
昭和44(1969)年再度「教育会館建設研究委員会」が設立され具体的な研究がはじめられました。各地の視察を基にして中間報告が出され、会員の意見聴取が行われました。
 その頃松本市では、「松本市総合計画」を立案しており、地域、父母共に歩む教育施設の建築を考えていました。教育会でもそれにあわせて構想案作りに着手し、昭和45(1970)年「松本市教育館の構想(仮称)松本市教育会」をまとめました。松本市を中心とした地域の家庭教育、社会教育、学校教育の文化センターとしての枚能を持つ教育文化会館構想でした。校長会、PTA連合会、教職員組合の同意も得て陳情がなされました。

 
       教育文化センター一日学習

 昭和46(1971)年、里山辺小学校跡に建設したいという案が、深沢松美市長から提案されました。会員も5年間に2,000万円を積み立てようとお金を拠出する事になりましたが、PTAの寄附をめぐり問題が出、規模も縮小せざるを得ない事態になりました。それとは別に、今まで転々としてきた教育館が、山辺小学校里山辺部校に置かれる事になり、昭和49(1974)年、「松本教育館」の名札がさげられました。教育会の本拠地が、初めて独立して置かれたのです。一方市の建設の動きは、設立の場所をめぐり「あがたの森」案も出、一進一退。信大思誠寮の移転が決まらず、再び里山辺部校案が浮上し、ようやく決定されました。
 昭和58(1983)年10月1日、教育文化センターとして落成。11月26日式典が挙行されました。会館建設委員会が設立されてからじつに15年に及んで実現をみたのです。

(4)松本市教育会百年誌の刊行

 昭和59(1984)年をもって教育会創立百年を迎えました。これを機に教育会の沿革誌を編集する事になり、昭和57(1982)年から昭和59年の3年間で1,200頁余の百年誌が会員の手によって編集されました。
            (柳澤 孝雄)