(1) 大正時代の自由主義教育

 大正時代には、欧米の自由主義の思想が入ってきました。教育においても教授の技術もさることながら、宗教や哲学をとおして、教師は自己の人格を高めることが大切であると考える東西南北会の教師たち、文学や芸術をとおして児童の個性をのばそうと考える白樺派など、自由主義の思想を基礎におく教育運動が起ってきました。この新しい考え方をする教師に対して、県当局は弾圧を加えるようになってきました。
 白樺派に対しては、大正7(1918)年の戸倉事件、大正9(1920)年の倭事件など、そのよい例です。大正13(1924)年には、自由主義の思想をもつ教師の多い学校や個人への弾圧として、松本女子師範学校附属小学校の川井訓導修身事件、手塚縫蔵が校長であった島内事件などがありました。

(2) 松本市の自由主義教育者の動き

 松本教育会の自由主義教育者の動きをみてみましょう。 松本小学校の三沢英一は、大正14(1925)年に東西南北会が起こしたといわれる星師範学較長辞職勧告事件に、松本教育会の代表として参加しています。東西南北会に属して活動した教師も松本小学校にいました。次に、教師の集団の例を紹介しましょう。大正5(1916)年、松本の東町に聖書研究会が、手塚縫蔵、松本小学校の教師によって誕生しました。キリスト教精神によって人格をみがいていこうという考えで、聖書を熱心に研究しました。
 この会に出席した教師たちの中には、後日、自由主義教育の弾圧事件の中心人物がいました。
 何人か例をあげますと、戸倉事件の赤羽王郎(一雄)、滝沢万治郎、女子師範附属小学校事件の川井清一郎、さらに、島内小学校事件の手塚縫蔵、さらにこの島内小の研究会で質問を発して活躍した小原福治、牛山唆などです。次に特筆すべきことは、大正7(1918)年に、34名の本科教員が異動するという松本小学校瓦解事件が起こったことです。この異動の教師たちの多くは、聖書研究会に出席した人たちでした。松本教育会では、この年に多くの自由主義教育者といわれた教師たちが、他郡の学校へ異動していきました。

(3) 松本小学校での授業視察

 大正13年8月29日に、松本市長より松本小学校長三村寿八郎宛に「小学較視察指導ノ件」という通牒が届きました。内容ほ、東京高等師範学較教授樋口長市の指導を受けなさいということでした。(表1)のように、9月4日と6日が松本小学校、5日が女子師範附属小学校、9日が東筑摩郡島内小学校になっていました。もちろん、県視学道田開平が同道してくることになっていました。
 9月4日 松本小学校開智部で、5名の教師が授業をしました。批評は、「教材ノ研究、授業法ノ研究、教師ノ有効且適切ナル活動ヲ奨励」と学校日誌に記されているように大いにほめられました。
 9月6日 松本小学校筑摩部校では、「正午ヨリ細評アリ、概括シテ穏健正当ナリトノ話アリ」と学校日記に記されています。松本市小学校、即
ち松本市教育会の授業に対しては、非常に穏健で静かな研究会に終始したようです。文部省の意図をくんだ授業を行なったと言うことができるでしょう。
 
川井清一郎訓導
視察 南信 (樋□教授)
日程 指導郡市 視察学校 宿泊地
9月1日 諏訪 下諏訪小学校 飯田
2日 下伊那 飯田小学校
3日 竜丘小学校 浅間
4日 東筑松本市 松本市小学校
5日 女子師範附属小学校
6日 松本市小学校
7日 講評 (女子師範ニテ) 福島
8日 西筑 福島小学校 松本
9日 東筑 島内小学校 大町
10日 北安 大町小学校  

(表1)視学指導日割 (旧開智学校所蔵)


(4) 川井訓導事件

 9月5日 後日まで話題の多い松本女子師範学校附属小学校、即ち川井訓導修身事件の授業のあった日です。第4校時、4年生の修身の時間でした。川井訓導は、修身の時間に教科書を使わないで、森鴎外の「護持院ケ原ノ仇敵」を教材として使いました。修身の教科書を使っていないということが問題になったのです。県当局は、教科書を使って授業をするのが適当であるという意図があり、附属小学校では、副教材を使ってもねらいが達成すればよいという考え方でこのちがいが対立の原困でした。附属の訓導は、自己の考えを述べたのですが、詭弁だといわれて聞き入れられない状態でした。この結果、川井訓導は休職処分となり、附属の伝田訓導はこの事件に抗議して辞職することになってしまいました。

(5) 島内小でのできごと

 9月9日 島内小学校視察の日です。7日の南信学校視察の際に、樋口は「私は来県以来、諸君の親書に接したかったが失望した。」という発言をしました。この発言に教師たちは刺激されました。附属小学校や7日の会で一方的に弾圧された教師たち200名が島内小学校に集まりました。授業の講評は、主として体操と修身でしたが、体操には牛山唆、修身には小原福治が鋭い質問を発し、樋口が返答できないで、しばしば絶句しました。信州教員の藷蓄のあるところを示し、自由主義教育の信念をぶつけたのでした。また、授業老の適否を問われた手塚は、「最も適任である。」と答えています。部下を信じている故に発せられた言葉でしょう。この結果、翌年手塚に転任の辞令が出たのですが、本人に相談なく発令するのはよくないと自分の信念に基いて辞職してしまいました。
 一連の弾圧事件は、信濃教育会と県当局との対立ということにもなりましたが、大正末
年には両者が話し合って解決しました。
 最後に、松本市教育会の対応はどうであったかについて簡単に述べましょう。
 大正時代の松本市教育会は、小里市長を会長とし松本市に小学校が一つという一市一校制でがっちり固まっており、自由主義教育に対しては穏健な対応をしてきました。しかし、松本近辺には島内事件にもみられるように自由主義教育を大切にし、権力に迎合せず、自分の意志を貫いていた人々が多数いたといえましょう。
           (近藤 裕彦)
=大正時代=

   7 自由主義教育がさかんなころ松本市教育会はどんな対応をしたのでしょうか