将来の教育者育成に人生をかけた

浅井 洌(アサイ・レツ)

1 生い立ち、略歴(18491938

 

 松本の鷹匠町の松本藩士大岩家に生まれ、 浅井家を継ぐ。松本藩、崇教館に学び、同校の句読師となる。明治51872)年維新後設 立された筑摩県学の助教となり、「学制」方毎行後筑摩県第一中学区一番小学校(開智学 校)に勤務。翌年、筑摩郡信楽村盛業学校(出柳学校)に移り、その間筑摩県師範講習所、 筑摩県師範学校で修業して教員資格を取得。その後、松本中学校(現松本深志高校)に勤務し、明治191886)年学制改革で長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)の発足と同時に同校へ転じた。以後、教諭から教授嘱託となり退職するまで40年間教員養成にあたり、5000人余の教員を送り出した。

 

 

 2 教育界での活躍や業績

 

 浅井の教育への取り組みは、明治101877)年の出柳学校(出川、並柳、平田、野溝地区の学校)から始まる。この当時の浅井は最も言論活動の盛んな時期で、『松本新聞』紙上において、上條蛙司と教育論争を展開した。この中で、浅井は普通小学のすみやかな充実、主知主義ではなく人間教育、そして女子 教員の必要性など、時代を先取りしていく開明的な考え方を訴えた。明治121879)年長野県教育会議の議員に選ばれ出席した後、東筑摩郡教育会議を浅井  自らが呼びかけ開智学校で開催する。ここで「東筑摩郡教育会議規則」が決められ、後に浅井を含む5名の起草委員による「生徒心 得」を完成し、各校に配布した。明治141881)年4月、公立松本中学校教諭となる。中学校で漢文を教えるかたわら私塾(時習学社)を開き、156歳位の学生数十人を教育する。当時学んだ一人が「何となく真面目になる、犯すべからざる、熱情ある向上心が見とれる場だった」と評している。また、この頃の教え子の一人に木下尚江がおり大きな影響を与えたといわれる。

  

 明治191886)年9月、長野県尋常師範学校に出仕を命ぜられ、のち助教諭となる。当初、国語・漢文・歴史・習字等を担当し、高い指導性を発揮した。また翌年、小学校教員学力検定試験委員を委嘱され、長くこの職についた。この間に「信濃の国」を作詞し、長野県というまとまりを意識させたことはあまりにも有名である。

 

 師範学校に勤続すること41年、人となり誠実温厚、沈毅寡幣にして、教えを受ける者3000人に及ぶという。多彩な能力をもちながらも教育のためにただひたすら人生を捧げた偉大な人物であった。

  

引用文献

   『浅井 』(松本市教育会)

   『松本市教育会百年誌』

   『松本市教育百年史』