松本市教育を築いた人々(人物小史42人)

  氏  名   生年・没年 業          績          等
1 松原 葎斎 まつばら ほうさい 1825~1898 松本丸ノ内に生まれる。藩学の教官から県学の教官になり、開智学校勤務。教授法を研究。
2 永山 盛輝 ながやま もりてる 1826~1905 筑摩県権令として教育を重視。学校の普及に努め、開智学校を建てる。
3 立石 清重 たていし せいじゅう 1829~1894 筑摩県権令永山盛輝の命を受けて、開智学校の新築工事の棟梁とな り、その設計と施工に当たった。
4 大野  誠 おおの まこと 1834~1884 明治14年から3年間長野県令を勤める。教育行政では、県立中学校の創設、師範学校の松本統合、師範学校附属小学校設置。
5 大田  幹 おおた こわし 1834~1906 明治8年東筑摩郡一番小学校開智校主席として来任。明治12年自由民権を主張して、奨匡社を松本に組織する。
6 飯田 正宣 いいだ まさのぷ 1847~ 明治初期の教員養成指導者。開智学校の大訓導兼幹事として来任。後に、師範講習所教員として、正則教授を演示。
7 浅岡  一 あさおか はじめ 1851~1926 明治19年長野県師範学校長として赴任。同年創設された信濃教育会の初代会長となる。附属小学校・幼椎園を開設。
8 能勢  栄 のせ さかえ 1852~1895 明治15年長野県知事大野誠に請われて長野県師範学校長となる。ペスタロツナの開発主義を導入し、信州教育の礎を築いた。
9 南島 安正 ふくしま やすまさ 1853~1919 松本の西町に生まれる。軍人で陸軍大将、シベリア単騎横断に成功。河原操子の父の友人で小里頼永とも友人。
10 小林 有也 こばやし うなり 1855~1914 松本城保存に尽力した初代松本中学校長。学校内に天守閣保存会を設け、松本域天守の修理保存に努めた。
11 小里 頼永 おり よりなが 1855~1941 30年間務めた初代松本市長で「国宝市長」といわれた。長いこと一市一校制(部校制)をとっていたが、後に多校制を実施。
12 青木 貞三 あおき ていぞう 1858~1889 松本師範学校卒業後、伊那郡の小学校に勤める。後に、上京して束京攻玉社に入り英書を学ぶ。漢学も修めた。
13 今井 五介 いまい ごすけ 1859~1946 松本製糸をもとに片倉製糸紡績㈱を創設。信濃鉄道の敷設、電灯の普及に努める。松商、松南高校の創設に関わる。
14 塩谷 吟策 しおや ぎんさく 1859~ 明治15年長野師範学校に勤務。同17年東筑摩教育会創立と共に不明会長になる。開発授業の普及に努める。
15 上條 蛙司 かみじょう ありじ 1860~1916 明治12年自由民権運動をめざす奨匡社の結成に指導的役割を果たす。その後、今井・生坂・笹賀などの小学校長を勤めた。
16 鳩山 春子 はとやま はるこ 1861~1938 家庭教育において「父は友達、母は教師」といういわゆる分量主義を主張。鳩山和夫と結婚し、共立女子学園三校の校長を勤めた。
17 寄藤 好害 よりふじ よしぎね 1863~1928 松本開智尋常小学校長。松本尋常高等小学校長。校訓として「愛・正・剛」の大綱を示し、校歌・修学旅行などの先鞭をつけた。
18 河野 齢蔵 こうの れいぞう 1865~1939 松本女子師範学校主席。附属主事等を歴任し、学校園を整備。ロツクガーデンを松本中学校、松本第二中学校などに作る。
19 上原 三川 うえはら さんせん 1866~1907 病気療養のため北里伝染病研究所に入院時に、正岡子規を知り、門下に入る。後に、島内尋常高等小学校訓導、校長を歴任
20 堀内 桂次郎 ほりうち けいじろう 1867~1922 明治29年大柳町の自宅に郁文学舎を始め、地方青年のための英語・数学・漢文を教授した。後に、私立郁文学校となる。
21 矢沢 米三郎 やぎわ よねぎぶろう 1868~1942 長野県師範学校、後には松本女子師範学校で校長を勤めた。その間、長野県の自然博物研究の先駆者として活躍した。
22 米沢 武平 よねぎわ ぷへい 1870~1944 明治31年松商学園の前身、松本戊戌商業学校の校長として迎えられ、松本商業学校に改名。昭和15年まで勤める。
23 木渾 鶴人 きぎわ つると 1871~1919 明治33年私立松本戌戌学校設立。同35年松本戊戌商業学校と改称。37年に校長退任。44年に松本商業学校。
24 河原 挽子 かわはら みさこ 1875~1945 明治29年、長野県高等女学校教諭となる。その後、上海務本女学堂教師となる。さらに、内蒙古の教育顧問となる。
25 窪田 空穂 くほ た うつほ 1877~1967 歌人。筑摩郡和田村(現松本市)に生まれる。早稲田大学教授、毎日新聞歌壇選者を務める。生家前に記念館がある。
26 手塚 縫蔵 てづか ぬいぞう 1879~1954 教育者。時の文部大臣鳩山一郎が教育問題について諮問したとき、「信州教育は、人格教育である」と喝破した。
27 小林 謹一 こばやし きんいち 1880~1939 小学校教員のかたわら、俳句・短歌を親しむ。また、折口信夫を師とし、民俗学に傾倒した。
28 小原 福治 おはら ふくじ 1883~1965 キリスト教精神に生きた教育者。山形、源池、長野県師範附属、波多(現波田)などの小学校長を歴任。
29 赤羽 王郎 あかはね おうろう 1886~1981 教育者、信州白樺運動の先達。本名は一雄。教職の後、松本で、雑誌「地上」を創刊したり、謄写版印刷に従事。
30 二志 茂樹 にし しげ き 1893~1985 昭和16年から開智国民学校長、松本市教育会長を務める。後に信濃史学会会長を務め、地方史研究を確固たるものにした。
31 川井 清一郎 かわい せいいちろう 1894~1930 白樺教員弾圧の犠牲となった松本女子師範学校附属小学校の訓導。「川井訓導事件」は、あまりにも有名。
32 青木 誠四郎 あおき せいしろう 1894~1956 東大助教授、東京家政大学長、学校法人渡辺学園長を歴任。戦後の信州教育に尽力し、児童心理・青年心理学を指導した。
33 小岩井 是非雄 こいわい ぜひお 1894~1981 昭和7年私立松本聾唖学院を発足。同25年7月までの18年間校長を勤めた。その間、松本市立、長野県立移管に尽力。
34 上條  茂 かみじょう しげる 1895~1954 教育者。教育実践研究者。戦前戦後にわたり県下教育研究のために指導的役割を担う。
35 櫻井 武平 さくらい かへい 1896~1965 長野師範卒業後、木曽福島小学校で教鞭。以後、大阪府立女子専門学校教授、松本高等学校教授、信州大学文理学部教授。
36 高津 作吉 たかつ さくきち 1897~1951 中央における白樺運動を松本を中心に広げるため赤羽王郎らと活躍。後に、東筑摩教育会長に選ばれた
37 糸魚川 祐三郎 いといがわ ゆうぎぶろう 1897~1967 岐阜県坂下町出身。松商学園短期大学、高校長。内村鑑三に師事したクリスチャンで県教育委員長も務めた。
38 鈴木 鋲一 すずき しん いち 1898~1998 ドイツ留学後、才能教育を開始。戦後、松本市に才能教育研究所を設け、江藤俊哉らの-・流バイオリニストを輩出した。
39 上條 憲太郎 かみじょうけんたろう 1901~1977 教育者。禅家。県教育長時に、勤務評定に関する規則(長野方式)を定める。
40 臼井 吉見 うすい よしみ  1905~1987 ジャーナリスト・評論家。
41 池上 隆祐 いけがみ たかすけ 1906~1986 農民運動及び教育振興の推進者。衆議院議員、県教育委員、学校給食会理事長を歴任。松本交響楽団理事長も努める。
42 加藤 静二 かとう せい 1910~1987 岐阜県出身。東京帝国大学医学部卒。昭和48年から信州大学長を努める。眼科専攻。