5. 東筑摩教育交絢会

 明治20年、学事視察目的の「教育交絢会」が創立され、活動を始めていましたが、21年名称を「東筑摩教育交絢会」と改め、目的を「郡内教育の普及上進を図る」とし、「私立松本教育会」の事業を引き継ぐとともに、県外視察を行ったり学課講習に力を入れる等、会員の力の向上を図りました。
 会費は給料の0.5%と出しやすくし、会長は郡長にして、会費を上回る郡補助金を得ることに成功。財政が安定しました。
 しかし会長の権限は非常に強化され、上からの統制力の強い半官半民の会となったのです。新設した常備委員会に、郡内巡回監督・授業批評の権限を与え、郡内教育についての意見発表や郡長への上申をさせました。また優れた教員を選び、金品を贈り表彰するなどしました。郡長は、全員を強制加入すべく会則変更を望みました。しかし、かろうじて個人の自由意志によるべきことを会則に残すことができました。

6. 東筑摩交絢会と信濃教育会部会

 明治23(1890)年『信濃教育会東筑摩部会』が設置されましたが、会員が少なく、交絢会員と重複し、事業内容も同じなため有名無実でした。何度か合併案が出されては否決されていましたが、明治31年、ようやく合併となりました。しかし会の事業は今までと全く変わらず、視察・講習・表彰・職務の協議・教育に関する演説討議等がなされ、総集会・議員会・常任委員会等も同様に行われいました。

7 .開智書籍館の設立

 「新知識を学びたいが、薄給のため書物が中々買えない。書籍館が是非欲しい」とは早くからの声でした。その願いを実現しようと、明治24年に開智学校職員を中心に基金を募り、将来「松本文庫」にまで広げようとの大展望のもとに、同校内に開館されました。
 最初は教育・文学・歴史書等、わずか27冊でしたが、月5銭以上収めれば誰にでも利用できるようにしたところ、急速に発展して、3年目には千冊余となり、更に藩や個人から寄贈を受け、教育品研究所の図書も併合し、明治41年に「開智図書館」となり、大正10年には県下最大の蔵書数を誇る「市立松本図書館」とまでなりました。

8. 東筑摩郡教育品研究所

 教育品展覧会の反省から、教育品を常時展示し、見学・研究出来るようにと、郡と交絢会が協同で明治33年に設立し、新しい教材教具・教科書・備品・児童作品ほか、県内外の名産物まで蒐集展示しました。
 研究所は明治41(1908)年に廃止。品物は開智小学校内の「松本紀念館」に移され、紀念館はのちに博物館へと発展するのです。

9. 書物等の編集刊行
 
 明治31(1898)年『東筑摩郡方言』を出版。『女子補習読本』を34(1901)年から数年間出版。県下の補習学校教科書として1万数千冊も採用されました。37(1904)年には東筑摩郡地図も発行しました。
 
       出版物『女子補習読本」

                  (三溝 祥一)
 =明治時代=
1 松本市教育会の前身はどんな会だったのですか
1. 東筑摩郡私立教育会

 藩校や寺子屋が廃止され、明治5(1872)年に学制が発布されましたが、欧米の制度をそのまま取り入れたため、地域の実情に合わず、指導法も明確でなく、教育は遅滞しがちでした。 
 そこで明治17(1884)年、「相集まり協同して教育上の学芸を研究し郡内(今の松塩筑)教育の興隆を図る」ことを目的に、120余名が参集し教育会を結成したのです。当時としては県下に類を見ない画期的な出来事でした。他の教育会に見られる「教育の普及・学制の翼賛」のような、官との結びつきを否定し、純粋に私立の立場を貫いていました。

2. 『東筑摩郡教育会雑誌』の発行

 会の機関誌として明治17年 から2か月毎に3年間発行された、県下教育会で最も早い教育専門誌です。
 内容は、教育に関する官令・論説・質疑応答・本会記事等多彩でした。特に当時の最新の教育理論として、師範学校長で日本三大教育家のひとり、能勢栄が唱える「開発教授術」を何回にも分けて紹介しています。それまでの口述や読書による知識の注入に代わって、児童自らの学ぶ力を引き出す方法を具体的に記述してあり、読者に新鮮な感動を与え、新教育への情熱をかき立てました。

3. 教育品展覧会

 「教育に対する理解を深め、効果を上げるために、教育品を集め公開展示したらどうか」との意見を採択し、明治18(1885)年10月に出品を募集し、開智学校を会場として7日間開催されました。
 出品物は、教育関係の帳簿・教材教具・得点表・生徒の習字図画裁縫作品・写真や地図・自作模型・博物標本・理学機械・修身歴史絵画・新工夫の授業法や管理法の筆記等多岐多彩で、会員や生徒以外の一般入場者が1万3千人を越え、人々の目を驚かせるとともに教育に対する熱意を喚起しました。
 展覧会は明治24(1891)年にも、松本町と松本尋常高等小学校の共催で開催され、1週間に1万7千余名が入場しています。

4. 東筑摩郡私立教育会の終焉

 明治17年10月県令(知事)大野が病死。代わった木梨は文部省の国家主義教育に忠実で、能勢を明治18年8月に辞任に追い込んでしまいました。翌19年4月「私立松本教育会」と名称変更し、会発展の努力を続けましたが、6月副会長木下が辞任。9月には会長塩谷までも、能勢の後を追って県外に去ってしまいました。
 重鎮を失った会は、会維持の努力と自覚を呼び掛けるとともに、明治20(1887)年2月会則を変更し、稲垣郡長を会長に据えて、建て直しを図りました。しかし運営の為の会費納入は常に滞りがちで、幹部の努力も限界に達し、教育会雑誌も20年9月第25号以後刊行が途絶え、私立松本教育会は活動停止を余儀無くされてしまいます。