(1)時代的背景

明治政府は、近代国家の確立を目指し、外国文化の移入を積極的に行いました。しかし、明治後半になると西洋思潮に対して反動が生じ、民間の思想界の反撃が行われるようになりました。志賀重昂・杉滞重剛・三宅雪嶺などの西洋文化を身につけた若い知識人は、雑誌『日本人』の誌上に日本固有の真・善・実の保存を高唱し、四民平等を基礎とする国家主義を主張しました。この主張が知識人の間に受け入れられ『日本及日本人』の読者がふえました。長野県の教師たちも熱心な読者となりました。

(2)東西南北会の成立

 教育界でも国民的自覚の高揚により、教育は国民道徳を尊重しなければならないというように変ってきました。そのために、教師自身が人格を磨き高める修養が大事であると考えられるようになりました。このような流れの中で、一世の卓絶した宗教家や有徳者などを訪問したり招いたりして、その感激訓化に浴することが緊要だという老の集団が、「東西南北会」を結成したのです。その中心人物は、手塚縫蔵と岡村千馬太でした。東西南北会の名称は、雑誌『日本及日本人』の中の「東西南北」という読者の意見交換の場でもある時事評論の名からとったものです。会の性格ほ、会員名簿もなく会則もなく会費も定められていませんでした。会の趣旨に賛同する者は老若職業を問わずだれでもよく、費用はそのつど必要なだけ集めていました。
 このような性格の会でしたが、初期の東西南北会では、岡村ら教育会の同志の意が十分に述べられなかったらしく、明治44年1月に、岡村や手塚らの手によって、教育者のみの東西南北会が成立しました。

(3)東西南北会の活動

 岡村は明治39年より8年間、手塚は大正5年より20年間、松本近辺で教育会の中心的な立場にいました。ともに同志と東西南北会を通じて教育会に熱い息をふきこむことに努めていました。


 大義毅来松記念写真(明治44年)東西南北会のメンバー

 明治43(1910)年の郡市連合春季総集会には招待員として三宅雪嶺を招き「松本の将来一山を教育的に利用して繁栄策を計るべし」という講演を、44年には池辺三山の「教育小観」という講演を聴いています。この二人の招待員は東西南北欄の愛読着たちが、その人格に接したいと願っていた当時一流の新聞人でありました。
 その後も、岡村・手塚がこの地の教育会に関係している問の講演会の招待員を示すと(表1)のようです。大正元年の郡市連合教育会および東西南北会の連合講演会に杉浦重剛を招待し、以後も一流の名士を呼んでいることがわかります。

(表1)
松本での総会 講  師
明治43年 郡市連合総集会 三宅 雪嶺
明治44年 池辺 三山
大正1年 郡市東西南北会 杉浦 重剛
大正2年 郡市連合夏期講習 志賀 重昂
時局講演会 犬養  毅
大正3年 郡市連合総集会 棲梧宝嶽老師
大正4年 三宅 雪嶺
大正5年 信教臨時総集会 犬養  毅
大正6年 郡市連合総集会 島崎 藤村
郡市連合講習会 志賀 重昂
大正8年 信教臨時総集会 植村 正久
三宅 雪嶺
郡市連合教育会 中野 正剛
大正13年 信教臨時総集会 三宅 雪嶺
昭和2年 郡市合同講習会 三宅 雪嶺
昭和3年 信教臨時総集会 新渡戸 稲造
昭和4年 杉浦先生記念講演会 古島 一雄
昭和8年 信教臨時総集会 三宅 雪嶺

(4)東西南北会と事件

 東西南北会が活動し始めたころ、 南安曇郡温明小学校では、新旧思想の対立がみられ、それが校長の排斥事件にまで発展していきました。その主謀者とみられたのが、新しい思想を持った三澤英一と松岡弘です。この問題について松岡が岡村千馬太に相談したところ「校長と部下との問に溝ができたら部下が去れ」と諭されて、温明小学校を去ることになりました。三澤、松岡を自校に採ろうとした人たちほ、東西南北会で活躍した人で、人格という固いきずなで結ばれていました。
 大正4(1915)年には、長野師範学校長星菊太排斥事件が起こります。松本の浅間において東西南北会の若い教師の話し合いに端を発したこの事件は、長坂利郎の「萎靡振はざる師範教育、敢て校長星菊太氏の猛省を促す」という見出しの文章が「長野新聞」に掲載されることにより、星校長に対する非難の世論が高まっていきました。教育の問題が、知事・文部省段階にまで進展してしまい、信濃教育会と行政当局の対立という教育会の大きな問題に発展しました。その結果県行政当局は県内の東西南北会派に弾圧を加えたのです。

(5)松本小学横瓦解事件

 正教員・准教員の争奪、師範卒業生の東西南北会員への注目など、世間が関心をよせたのは大校である松本小学校でした。大正7(1918)年3月31日の『信濃毎日新聞』に松本小学校の教員異動が男子部27名、女子部3名、田町部6名他、部長の半数の異動は松本として初めてという内容の記事として掲載されました。これが「本科教員34名を抜かれて瓦解した」(『長野県政史』第二巻)といわれる松本小学校瓦解事件です。転出先をみると、東西南北会派の校長のいる拠点校に多くの教員が転出しています。このことから瓦解の原因の一つは東西南北会派の校長に引っばられたからだということが言えます。

(6)東西南北会の終末

 岡村・手塚を中心として成立した東西南北会の活動を、超一流の生きた人格にふれて個人の内面的な修養に努めるという教育思潮による講演会の活動、若い教員による星校長排斥事件、人的な団結の強さを示す人事面での活動などを東西南北会の活動の例としてとらえてきました。しかし、この活動も大正の末期から昭和にかけて表面だった活動が影をひそめました。
 自由主義思想を基本的立場とする東西南北会は、文部省や県のいうことをきかない教育を乱す集団とみなされ、一連の弾圧が加えられました。岡村は県視学から埴科郡長への転出辞令がだされましたが辞職、手塚も島内事件に関連して辞職、三村安治の中学校長への転出など県視学の総入れかえをし、東西南北会の巨頭と目される教員に弾圧を加え、その活動に歯止めがかけられていったのです。
            (小松 啓三)
=大正時代=

 4 東西南北会の活動と教育会とはどんな関係があったのですか