(1) 教育会の再編成

 戦争終結後、9月から10月にかけて、占領軍総司令部(GHQ)は日本の教育の民主化に関する政策を矢継ぎ早に打ち出しました。
 文部省も自由主義教育の優先復帰、軍国主義者の解職等の通達を発しています。
 昭和21(1946)年11月にほ新憲法が公布され翌年3月には学習指導要領試案が発表され次いで教育基本法、学校教育法が施行され4月1日をもって新学制に移行しました。
 昭和19年、松本市教育会は「大日本教育会長野県支部松本分会」と改称していました。21年7月に大日本教育会は日本教育会と名称を改め地方教育会の連合組織となったため、11月には信濃教育会が再出発しました。そして、22年5月には「日本教育会長野県支部松本分会」を改め、ふたたび「松本市教育会」となりました。
 しかし、翌23年6月には松本市教育会を構成していた義務制、新制高校、大学高専の三信濃教育会松本部会結成総会記録部会が分離してそれぞれに団体を作って研究することが最も便利であるという理由により発展的解散をとげ、信濃教育会員であって市内義務教育制学校幼稚園等に勤務する老等をもって構成員とする「信濃教育会松本部会」が発足しました。この組織が現在の松本市教育会の原点ということになります。

(2) 教育会教組一本化論

 昭和20年11月大日本教育会長野県支部主催の「新教育研究協議会」において政治と教育の直結をはかるため「信州教育者連盟」を結成して国会に教育会の代表を送ろうとして選挙運動を展開しました。かくして松本市出身の文化人池上隆祐が当選しましたが、教師の立場を利用して個別訪問等の違反があったとして責任者上條憲太郎は収監されました。結局、昭和21年6月教育者が政治団体を作ることは困難となり信州教育者連盟は解散しました。 その後、各郡市とも教員組合結成の動きが具体化し、松本市教職員組合は21年11月20日に県下11番目の組合として結成されました。12月には長野県教組が誕生しました。
 22年1月18日全官公庁労組共闘委員会の2.1ゼネスト宣言により長野県教組はゼネスト参加に傾斜して行きましたが、松本市教組はゼネスト反対の態度を貫きます。「影響を受けるのは児童だ」「ストをすることは教育を捨てることだ」「ゼネストをもって政府を打倒するという考え方は国家を救う方途たりえない、教育刷新の原動力は教育者の内に研済により蓄えられた精神であ


     
       信濃教育会松本部会結成総会記録
る」として1月31日県教組を脱退して、その立場を貫いたのでした。
 昭和22年度末には教組が労働法親による団体交渉権を背景に活動を展開し始めると、長年にわたり県下の教員を会員としている信濃教育会との間に、事業や活動の上で重複が生じ、23年7月、教員再教育講習会をめぐって教組と信濃教育会の対立が激化しました。9月には教組ほ信濃教育会とは交渉をしないとして「教組一本化論」の情宣活動が行われます。この対立は24年関東軍政部のフオックス博士が来長し、『教組は教員の生活向上のための団体であり、教育会は職能団体であるから対立は無用の論である」との命により今後協調協力して長野県教育の進展に寄与することとなり一本化論に終止符が打たれました。
 この間、松本市教育会は「教組との懇談会をもて、教組と協調せよ」と教組・教育会の二本立て論を初めから堅持しました。そして、教育会のあり方については、教師の人格の向上こそ教育向上の基となるとして職能団体としての実を上げることを目指すべきとの見解をもっていました。

(3) 新教育の展開と教育会

 昭和21年7月大日本教育会県支部の方針を受けて、松本市教育会は新教育の理念と方法を求める研究活動を開始し、また新教育樹立のための講習や講演会を盛んに主催しました。
 教育会の委員会組織も新教育の具体的問題解決のために改変され、22年5月以来次々に示される指導要領に対応するための教科委員会が活動を始めるなど、教育会が中心となって新しい教育の方向を見いだそうとしていました。松本市教育会の総集会の講演や会員研究発表においても、新教育や教師のあり方、新教育の学習内容組織化の問題、指導要領の解説、平和国家日本の今後等の内容が取り上げられています。
 新学制は始動しましたが教職員の資格規定の改正は遅れ、ようやく24年教職員免許法が施行されることになりました。同法により県下に2,000名余の無資格教員が生まれることになり、教諭資格を与えるために昭和25年より認定講習会が県教委の主導で行われることになりました。この動きに対して信濃教育会は教育会、または学校、その他の教育団体の主催する講習会研究会を認定講習の一環として認めるよう要望し認められました。松本市教育会主催の免許法認定講習会は昭和28年度まで続けられ以後、信大現職教育講座に吸収されました。

(4) 東筑摩教育会との合併問題

 東筑摩教育会と松本市教育会とは講習会や講演会では協力共催の形をとり続けて釆ました。戦前、合併問題が狙上に上ったことはありませんでした。
 昭和29年東筑摩郡に属していた13か村の松本市への合併を契機に、双方の教育会に人的、地域的な変化を生じ両教育会の合併問題が浮上しましたが、合併までには発展しませんでした。
 昭和34(1959)年、東筑摩郡教育会館(若松町)が焼失し再建に際して合併問題が具体的になりましたが、「焼けたから一緒になるという便宜主義はまずい」等両教育会の独自性をもち続けて行きたいとする意識が強く合併は実現しませんでした。しかし、会員の間では合併論が盛んだったということです。
                 (青木 教司)
=昭和時代=
    12 戦後、教育会はどのようにして再編成されたのですか