(1)大正初期の教育会の問題点

 明治33(1990)年上水内部会が加盟することによって県下の郡市すべてが信濃教育会に加盟しました。この当時は、すべての会員が信濃教育会に入会していたのではなく、大正2年度の例では県下教職員の4分の1位の入会でしかありませんでした(問題点1)。
 また代議員も本会議員と各部会からの議員の2種類で譜代と外様の感がありました(問題点
2)。
 その上、終身会員制度というのがあって、会費を徴収しないで雑誌『信濃教育』を贈呈するもので、その数が当時の信濃教育会員数の4分の1にもなり経済上大変でした(問題点3)。
 また、郡市会員は雑誌購読のみの傾向となり、その上会費の未納が多額に達していました(問題点4)。

(2)教育会の組織変更

 大正元(1912)年に改正委員会が発足し、翌年に改正の成案を作成しました。上記問題点と関連して改正点を上げてみると、
①部会員は全員会員となる ②本会選出議員はやめ部会選出議員のみとする ③雑誌は団体・学校のみとし終身会員にも配布しない、会員が購読するときは2割引き内外とする等です。この改革案は大正2年6月の総会で「信濃教育会の五大事業」の1つとして提案され各郡市会員の意見を求めています。松本は下伊那など7部会とともに賛意を示しています。北佐久など3部会は反対、小県など3部会は一部修正や希望条件を付しての賛成でした。これらの意向をもとに大正3年2月に議員会で改正案の審議・決定が行われました。実に着手してから3年目でした。

(3)改正後の信濃教育会

 会員が一元化されることにより信濃教育会の会員数は1,800余名から一挙に6,700余名となりました。終身会員378名は終身会員名簿に記載されました。松本部会からは三村寿八郎などが名をつらねています。
 大正4(1915)年には、会長・副会長は選挙によって選出されるようになり、また大正9年には評議員の公選制が取り上げられ議決されました。
 当時の議員会の記録を見ると大正3年の改正は、信濃教育会を大きく前進させる力となったのです。討議内容をみると、長野県教育全般の諸問題についてふれたものであったり、県教育の樹立、教育思想の発源、教育施設の計画など、各郡市教育会や本会からの提出問題について、3日間の会期申達続して研究討議されるなど大正4・5年頃の教育会は最高潮でした。松本から議員会に提出されている例として、大正4年の議員会に「高等学校設立問題で調査設置に関する件」、また東筑からは「大正5年度において臨時大会を特に松本で開催することの如何」などがあります。

(4)松本市教育会の組織変更

 信濃教育会の組織改革にとも ない松本市教育会でも問題点についての研究討議がなされ、市教育会としての組織変更に取り組みました。
 

          教育会幹事記録

 松本市教育会所蔵の大正3(1914)年より大正9(1920)年5月の幹事記録第二号によると、大正3年7月18日、20日、21日に会合が開かれました。しかしこの会合の前に7月16日午後1時から女子師範学校において松本中学校、松本高等女学校、松本商業学校、教育学校、郁文学校の代表によって 信濃教育会の改革に対応するあり方が研究討議されました。このとき小学校関係ほ参加していません。いかに中等学校のこの改革に対するあり方が問題であったかを知ることができます。この会合の後7月18日からの協議会で松本市教育会の方向が決定されました。以下は幹事記録の原文の一部です。 「大正3年7月18日  本年度ヨリ信濃教育会ノ、組織ヲ立憲的二 改革スルコト、ナリタレバ随テ各部会ニモ 影響ヲ来タシクリ殊二長野市及松本市ノ如 キ中等学校ノ多数アル場所/、大影響アリ、 即チ本日ヲ以テ愈々我松本市教育会モ其組 織ヲ変更スルコト、ナシ松本市教育会ヲ別 紙規則書ノ如ク中等部、初等部ノ二部ヲ置 クコト、セリ、本日午後3時、初等中等各 部ヨリ協議員各六人選出、男子部二於テ協 議員会開会、会長、部長及本会議員ヲ選出 スルコト、セリ。協議員ハ左ノ如シ 初等部6人内訳附属2人、男子部1人、女 子部1人、田町部1人、源池部1人、中等 部6人(この部分は概略、氏名略)。
  会長・副会長・本会議員ハ多少議論アリ テ釆ル二十日ヲ期シ再ビ会合協議ノ上決定 スルコト、ナシ散会セリ。」  「大正三年七月二十日、  本日午後一時ヨリ前記協議貞男子部二会 合十入日ノ継続協議執行‥‥‥…(以下略)」
 この会合の結果、会長には小里頼永、部長と本会議員は各部の協議によって、中等部は矢澤米三郎、初等部は三村寿八郎が決定しています。
 中等部の構成は、中学校、女子師範、高等女学校、商業学校など6校、初等部は附属小学校、市内小学校、幼稚園、女子職業学校などで構成される二部制をとり改革に対応しました。以後この二部制で運営されましたが大正9年には廃止されました。

           子守学級の遊戯

(5)子守学級・芸者学級

 大正期は世界経済、世界大戦、関東大震災等のあおりをうけて庶民の生活は苦しいものでした。そのため就学できない児童のために松本市は、子守学級、芸者学級などの特殊学級を作り道を開きました。これを伝え聞いて県外から入級を求める児童があとをたちませんでした。教育尊重の気風と教育会の先生方の苦労がしのばれます。       

             (山口 雅司)

(1)大正初期の教育会の問題点

 明治33(1990)年上水内部会が加盟することによって県下の郡市すべてが信濃教育会に加盟しました。この当時は、すべての会員が信濃教育会に入会していたのではなく、大正2年度の例では県下教職員の4分の1位の入会でしかありませんでした(問題点1)。
 また代議員も本会議員と各部会からの議員の2種類で譜代と外様の感がありました(問題点
2)。
 その上、終身会員制度というのがあって、会費を徴収しないで雑誌『信濃教育』を贈呈するもので、その数が当時の信濃教育会員数の4分の1にもなり経済上大変でした(問題点3)。
 また、郡市会員は雑誌購読のみの傾向となり、その上会費の未納が多額に達していました(問題点4)。

(2)教育会の組織変更

 大正元(1912)年に改正委員会が発足し、翌年に改正の成案を作成しました。上記問題点と関連して改正点を上げてみると、
①部会員は全員会員となる ②本会選出議員はやめ部会選出議員のみとする ③雑誌は団体・学校のみとし終身会員にも配布しない、会員が購読するときは2割引き内外とする等です。この改革案は大正2年6月の総会で「信濃教育会の五大事業」の1つとして提案され各郡市会員の意見を求めています。松本は下伊那など7部会とともに賛意を示しています。北佐久など3部会は反対、小県など3部会は一部修正や希望条件を付しての賛成でした。これらの意向をもとに大正3年2月に議員会で改正案の審議・決定が行われました。実に着手してから3年目でした。

(3)改正後の信濃教育会

 会員が一元化されることにより信濃教育会の会員数は1,800余名から一挙に6,700余名となりました。終身会員378名は終身会員名簿に記載されました。松本部会からは三村寿八郎などが名をつらねています。
 大正4(1915)年には、会長・副会長は選挙によって選出されるようになり、また大正9年には評議員の公選制が取り上げられ議決されました。
 当時の議員会の記録を見ると大正3年の改正は、信濃教育会を大きく前進させる力となったのです。討議内容をみると、長野県教育全般の諸問題についてふれたものであったり、県教育の樹立、教育思想の発源、教育施設の計画など、各郡市教育会や本会からの提出問題について、3日間の会期申達続して研究討議されるなど大正4・5年頃の教育会は最高潮でした。松本から議員会に提出されている例として、大正4年の議員会に「高等学校設立問題で調査設置に関する件」、また東筑からは「大正5年度において臨時大会を特に松本で開催することの如何」などがあります。

(4)松本市教育会の組織変更

 信濃教育会の組織改革にとも ない松本市教育会でも問題点についての研究討議がなされ、市教育会としての組織変更に取り組みました。

=大正時代=

 5 大正初期、信濃教育会の組織変更によって松本市教育会の組織は

          どうかわったのですか