1 生い立ち、略歴(1842~1915)
天保13年(1842)松本の上土町に生まれる。12歳で松本藩崇教館に入学、儒教を修める。その後、洋学を志し、江戸に出て蕃書調所に入学。維新で設置された開成所教授試補、大学助教を経て、明治5年(1872)大学南校校長となる。同年の文部省創設以来、会計課長、文部大書記官、普通学務局長、文部次官等を歴任、50歳までの20余年間を文部省一筋に勤める。明治29年(1896)貴族院議貝に勅撰され、41年に男爵を授けられた。
2 教育界での活躍や業績
幕末の松本藩がオランダの砲術研究を始めようとしているのを知り、.世の大勢を察知した辻は、蘭学研究の志を固めた。江戸へ出て研究しようとしたが、家の事情で実現できなかった。地元に来ていた蘭医や、江戸遊学から一時帰松した松本藩士らを訪問してよりいっそう蘭学研究へ足を踏み入れる決心をして、文久2年(1862)20歳の時江戸へ出た。蘭学や英学を学び、蕃書調所に入学、一時帰藩の後、再び江戸へ出て洋書調所へ入り、英学、仏学に取り組んだ。大学南校校長となった明治5年に、明治政府によって学制が領布されたが、この立案は主として辻の力によるものであった。
明治19年(1886)からは、森有礼以下6名の文部大臣のもとで辻は、文部次官を務め、我が国の文部行政の基盤をつくった。
また、辻は地方の教育を中央の教育施策に近づけるために大日本教育会を組織し、その会長となった。そして、開智学校児童への訓話、職員の激励、記念植樹、信松会の設立、あるいは松本高等学校の招致などを通して、彼の出身地松本に新しい教育制度が普及するよう努力した。大日本教育会に松本市教育会も明治42年に加盟した。
大日本教育会について触れた辻の講演を次に引用しよう。
「総じて海事思想と遠征的思想とは相伴うものである。だから海事思想に欠乏する者は自然に引込み思案になり易い。私は信州人に対して遺憾に思う。しかし、寒国の人は暖国の人より忍耐力に富む。もし寒国の人が猛然と奮発すれば、その目的とするところは必ずこれを貫徹する。福島中佐はその例である。海国思想を養うにも小学校教育のカは大きい。たとえば水練を教えるのもすこぶるそのもとをつくる。山国の人は殊に水の嫁が薄いから水練が必要である。
教育はまだ研究経験の行届かないことが多い。それには大日本教育会はもっとも屈強な機関であるから、諸君は研究すべき問題、又は研究の結果をこの会に送り、そして教育上の世論をつくるもとにしてほしい。」
引用文献
『松本市教育会百年誌』
『松本市教育会百十年のあゆみ』
『長野県歴史人物大事典』(郷土出版社)
『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』別篇人名(同誌郷土史料編纂会)
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