(1)女性教員の増加

平成5年度の松本市教育会には女性会員が402名いました。男性会員が669名ですから、女性会員は全体の約4割になります。
 学制が発布されてから30年たった明治35(1902)年には長野県下の女教師数は630名、54年後の大正15(1926)年には2.5倍になって1,613名になりました。このようにしだいに女性教員の数は増えてきました。

     (表1) 女性教員の変化
年 度 女性教員数 全体に対する割合
明治9年 4人 1%
24 320 84
39 777 19 5
大正10 1422 24 4
昭和11 1612 20 0
21 3193 34 4
平成5 5094 39 1













昭和21年までは小学校教員のみ(『長野県
教育史』別巻1)

平成5年は小・中本務教員数全部(『長野県教育要覧」)


 広丘小学校長なども務め歌人としても有名な島木赤彦(久保田俊彦)は、大正6(1917)年に『信濃教育』へ女教師論を発表しています。それは、女教師にかぎらず女が家を外にして職業につくことは自然でない、女教師はなるべく早く家に入って堅実な家庭をつくるようにしてほしいものだという趣旨のものです。これは、当時のおおかたの人々の見方でした。しかし、大正期には、全国的に女教員会の開催機運が高まったときでもあったのです。

(2)帝国教育会の諮問

 大正5(1916)年、帝国教育会は小学校の女教員にかんする調査を実施しました。その報告書のなかでは、現在は男教員3分の2、女教員3分の1の割合が適当であるが、将来は男女相半ばするのが理想であるといっています。そして、女教員の意見を聞くため、全国女教員大会が開催されることになりました。
 この大会での研究問題は、
 (1)我が国の女子の身体を強くする方法
 (2)有夫女教員のために勤務時間を減少し同   時に俸給も減らすが教員席次は年功に応   じて相当の地位を保つことができる規定を   制定することの可否
 (3〉女教員の欠点とその対策
 (4)女教員の担任学級
 (5〉服務上の障害
 〈6)産前産後の休養
 などが予定され、各県に諮問されました。

(3)初めての女教師の大会

 これにこたえるため、松本女子師範学校長が主催者となって大正6年に県下から松本に63名の代表者をあつめ、女教員打ち合わせ会が開催されました。松本は松本小学校の各部から、武野人重・吉田実・伊藤満寿江・小島みちえ・浅輪みつゑの5名が参加しました。
 3日間にわたる会合の結果、上記問題についてつぎのようなことが論議されました。

(1〉では、女子の自覚をうながすこと、日本女子の体格標準を明らかにして、婦人実にたいする理想をあらためること、生理・婦人衛生についての知識の普及と迷信の打破をすること、衣食住の改善や女児の体育を抜本的に革新することなどが確認されました。

(2)では、女教員の数を増やし有能な人がより教員を続けていくことができるなどの賛成論と、俸給は時間に比例するものではない、有夫女教員だけが便宜をうけるのは不公平になる、
乱用して女教員全体が侮べつされないかなどの反対論が対立し、結局この規定の制定には反対することになりました。

(3)では、女教員の欠点だといわれていた研究工夫の精神、応用の才、学力の3点が乏しいことを是認し、その改善のために社会の因習の打破や師範教育の徴底や読書・講習・講演などの修養が必要なことを確認し合いました。

(4)では、最適なのは尋常科1・2年の担任で、3・4年の男女と5年以上の女子の担任は普通、不適なものは高等科の男子の担任であるという話になりました。

(5)では、育児のほ乳について母乳か人工ほ乳かで大議論をしました。

(6)では、産前1週間産後5週間が適当であることが決定しました。
 
 これは、松本の女教師の提案が可決されたものでした。
 さらに、信濃教育会にたいし女子特有の講習・研究にたいして、年々相当の出費をするように建議することが可決され、また、長野県女子教員会を毎年松本で開催することも満場一致できまりました(『長野県教育史』13巻)。今まで組織的に会合をもたなかった女教員がこうして全県規模で会合をもち、自分た大会が開かれた女子師範附属小学校(昭和16年)の意見をまとめたことは画期的なできごとでした。



 大会が開かれた女子付属小学校(昭和16年)

 じつは、松本市教育会では大正2(1913)年に小学校・実科中学・幼稚園の女子教員が「女子談話会」という同好会を発足させていました。これは、昭和10(1935)年に「松本市小学校女教員会」となり、さらに県の長野県連合女教員会結成の動きをうけて、17年には「松本市女教員会」へと発展していきます。
 信濃教育会では太平洋戦争後、女教員の研究・意見発表会が位置づけられます。昭和22(1947)年に、「女教員研究発表会」が開催され、これは昭和32年に「女子会員研究発表会」、40年に「女教師研究発表会」、42年に「女教師研究協議会」と名称をかえ現在に続いています。

(4)大正時代後半の松本市教育会

 つぎに大正時代の松本市教育会の特徴的な動きをみることにしましょう。
 それまで東筑摩教育会と連合で行われていた総集会が、大正9(1920)年から松本市単独で行われるようになりました。当時は会員の学業視察が教育会の事業の第一にあげられていたので日本各地の視察報告が行われています。
 大正12・13(1923・24)年には県営図書館を設置することについて信濃教育会の動きに協力し、運動を進めました。そしてその設置場所を松本にするよう働きかけもしました。
 大正4(1915)年から市では松本市史の編集を始めていました。けれども順調にいきませんでした。そこで、13年に教育会としてもこれをなんとか進めようと企画をしましたが、実現しませんでした。
                  (後藤 芳孝)
=大正時代=

      6 女性教員の県大会と松本市教育会の動きを教えてください