松本市教育会の歴史(詳細) 「松本市教育会110周年のあゆみ」より
明治時代 | 1.教育会の前身はどんな会だったのか | (1)東筑摩郡私立教育会 | 松塩筑教育の興隆を図る」ことを目的に、120余名が参集し教育会を結成した. |
(2)教育会誌の発行 | 会の機関誌として明治17年から2か月毎に3年間発行された、 | ||
(3)教育品展覧会 | 開智学校を会場として7日間開催された。- | ||
(4)私立教育会の終焉 | 運営の為の会費納入は滞り、教育会雑誌行が途絶え、活動停止をした。 | ||
(5)東筑摩交詢会 | 「私立松本教育会」の事業を引き継ぎ、県外視察・学課講習に力を入れる | ||
(6)信濃教育会部会 | 交絢会と明治31年合併した。しかし会の事業は今までと全く変わらなかった。 | ||
(7)開智書籍館 | 開智学校職員を中心に基金を募り、同校内に開館された。 | ||
(8)教育品研究所 | 教育品を展示し、見学研究出来るようにと、郡と交絢会が明治33年に設立。 | ||
(9)書籍の刊行 | 『東筑摩郡方言』 『女子補習読本』『東筑摩郡地図』などを出版する。 | ||
明治時代 | 2.松本市教育会はいつどのように発足したか | (1)発足は明治40年 | 明治40年5月1日の市制施行が松本市教育会の誕生につながった。 |
(2)松本市教育会の前身 | 東筑摩郡教育会→東筑摩教育交絢会→松本市教育会 | ||
(3)教育会の原点 | 会長は小里頼永(松本市長)、副会長は三村寿八郎(松本尋常高等小学校長) | ||
(4)松本市教育会の運営 | 郡市連合の春季総集会を例にして小里会長の活動ぶりがわかる。 | ||
(5)松本市教育会の特殊性 | 日本一の小学校教育を目指して松本市一校制を築いていきました。 | ||
明治時代 | 3.明治時代の教育会の活動 | (1)教育会の活動概要 | 明治18(1885)年に教育品展覧会.講演会、講習会、県外視察など重要事業である。. |
(2)講演会は休校にして | 学校教育に関することばかりでなく、学識研修についても多くの講演があった。 | ||
(3)夏期講習会 | 明治27(1894)年交詢会によって最初に開催されてから、昭和18(1943)年まで開催。 | ||
(4)冬季講習会 | 学校の冬休みを利用しての講習会が開かれた。 | ||
(5)日本一の教育県 | 就学率全国1位となり、全国から長野県へ教育視察者がやってきました。 | ||
(6)教育会総集会 | 総集会は午前9時から4時半まで、春秋2回行われました。 | ||
(7)郡市連合会員運動会 | 綱引き、二人三脚、暗算競争、竹馬競争など28種目がありました。 | ||
(8)社交(教育)クラブの設置 | 教育や文学哲学を論じ合う姿が目に浮かびます。 | ||
大正時代 | 4 東西南北会の活動と教育会とはどんな関係があったのですか | (1) 時代的背景 | 真・善・実の保存を高唱し、四民平等を基礎とする国家主義を主張しました。 |
(2)東西南北会の成立 | 明治44年1月に、岡村や手塚らのにより、教育者のみの東西南北会が成立しました。 | ||
(3)東西南北会の活動 | 岡村・手塚は、同志と東西南北会を通じて教育会に熱い息をふきこむことに努力した。 | ||
(4)東西南北会と事件 | 長野師範学校長星菊太排斥事件から、県行政当局は東西南北会派に弾圧を加えた。 | ||
(5)松本小学校瓦解事件 | 松本小学校の多くの教師が東西南北会派の校長に引っばられ、転出した。 | ||
(6)東西南北会の終末 | 東西南北会は、文部省や県から教育を乱す集団とみなされ、弾圧された。 | ||
大正時代 | 5.大正初期、信濃教育会の組織変更により、松本市教育会の組織はどう変化したか。 | (1)教育会の問題点 | 大正2年度は県下教職員の4分の1位しか信濃教育会に入会してませんでした。 |
(2)組織変更 | 大正3年2月に議員会で改正案の審議・決定が行われました。 | ||
(3)改正後の信濃教育会 | 信濃教育会の会員数は1,800余名から一挙に6,700余名となりました。 | ||
(4)松本市教育会の組織変更 | 信濃教育会の組織改革にともない松本市教育会でも組織変更に取り組みました。 | ||
(5)子守学級・芸者学級 | 就学できない児童のために市は、子守学級、芸者学級などを作り道を開きました。 | ||
大正時代 | 6.女性教員の県大会と松本教育会の動き | (1)女性教員の増加 | 女教師数が増え、大正期には、全国的に女教員会の開催機運が高まった。 |
(2)帝国教育会の諮問 | 帝国教育会は小学校の女教員にかんする調査を実施しました。 | ||
(3)初めての女性教師の大会 | 松本女子師範学校長が県下63名の代表者による、女教員打ち合わせ会が開催する。 | ||
(4)大正時代後半の松本市教育会 | 東筑摩教育会との総集会が、大正9(1920)年から松本市単独で行われる。 | ||
大正時代 | 7.自由主義教育が盛んな頃の松本市教育会の対応 | (1)大正時代の自由主義教育 | 東西南北会・白樺派など、自由主義の思想を基礎におく教育運動が起る。 |
(2)松本市の自由主義教育 | 大正7(1918)年に、34名の本科教員が異動する松本小学校瓦解事件が起こった。 | ||
(3)松本小学校の授業視察 | 東京高等師範学較教授樋口長市の指導を受けなさいという意味であった。 | ||
(4)川井訓導事件 | 川井訓導は、4年生の修身の時間に修身の教科書を使わず授業をした。 | ||
(5)島内小での出来事 | 附属小学校や一方的に弾圧された教師たち200名が島内小学校に集まりました。 | ||
昭和時代 | 8 松本市は昭和の初めまで一校制をとっていましたが、これは松本市教育会にどのような影響を与えたのでしょうか | (1) 全国希にみる大規模校 | 明治25(1892)年には、37学級(尋常料25、高等科12)児童数3,212人だった。 |
(2) 一校制の存続 | 三村寿八郎は21年間、小里市長とのコンビにより一校制を維持してきた。 | ||
(3) 一校制の成果 | 高等女学校等の先進的な施設などが一校制の組織の中から生まれた。 | ||
(4) 一校制の弊害 | 教員の人事異動は大きな問題であった。 | ||
昭和時代 | 9 世界恐慌や満州事変や日中戦争のころの松本市教育会の様子を教えてください | (1) 世界恐慌下の市教育会 | 日本経済は最大の危機に陥って、生糸も米も暴落し、「欠食児童」の問題が起こった。 |
(2) 満州事変下の市教育会 | 世論も学校も戦時に対する関心が高まり、満州事変記念日も制定された。 | ||
(3) 日中戦争下の市教育会 | 昭和16年に国民学校令が公布。小学校も国民学校となり、太平洋戦争に入っていく。 | ||
昭和時代 | 10 興亜教育が盛んになって松本市教育会はどのようなことをしたのでしょうか | (1) 興亜教育大会の開催 | 各教育会からの意見をもとに、興亜教育振興・義勇軍送出の具体策を討議しあう。 |
(2) 義勇軍志願者への拓務訓練 | 水汲の県営運動場横の養莫堂で、義勇軍志願者を対象とした拓務訓練をおこなう。 | ||
(3) 義勇軍送出委員会の設置 | 昭和17(1942)年に興亜教育・義勇軍送出委員会をつくり、義勇軍送出に力を入れる。 | ||
(4) 教学奉仕隊・拓殖講習会への派遣 | 夏期休業中に満州で開拓訓練をうける義勇軍を視察する教学奉仕隊が組織される。 | ||
(5) 青少年義勇軍献本運動 | 義勇軍の知的欲求を満足させるために教職員一人一冊あたりの献本運動を実施した。 | ||
昭和時代 | 11 太平洋戦争の敗戦直前に松本市教育会は解散し大日本教育会長野児支部松本分会となりますが、そのころの様子を教えてください | (1)国民学校制度の実施 | 昭和16(1941)年「国民学校令」が公布され、尋常高等小学校は国民学校に改められた。 |
(2)戦時教育の姿 | 戦局が激しくなると、会員も兵士となって出征していくものがしだいに多くなってきました | ||
(3)松本市教育会の解散 | 大日本教育会長野県支部となり 、国家の教育政策の遂行に寄与することになりました。 | ||
(4)戦時教育令の実施 | 学年学級を単位として、一個大隊または数個大隊の学校学徒隊が結成された。 | ||
昭和時代 | 12 戦後、教育会はどのようにして再編成されたのですか | (1)教育会の再編成 | 「信濃教育会松本部会」が発足した。この組織が現在の松本市教育会の原点です。 |
(2)教育会教組一本化論 | フオックス博士が教組と教育会は対立しないと言い、一本化論に終止符が打たれた。 | ||
(3)新教育の展開と教育会 | 新教育の理念と方法を求める研究活動や講習や講演会を盛んに主催した。 | ||
(4)東筑摩教育会との合併問題 |
東筑摩郡13か村の合併を機に、教育会に変化を生じ、合併問題が浮上した。 | ||
昭和時代 | 13 昭和20年代30年代の松本市教育会はどのような活動をしたのでしょうか | (1) 新教育の理念と松本市教育会 | 教育会中心で新教育の理念と方法を少しでも早く確実に見出そうと諸活動を展開しました。 |
(2)松本市教育会総集会 | 総集会の改善に努め、一日を半日に、土、日の公休日をさけるなどの開催日の工夫をした。 | ||
(3)各種委員会の活動 | 文部教研(教育課程の審議)と組合の教研集会参加レポートの審議が同時に行われた。 | ||
(4)県外視察 | 教育会が補助金をふやすなど県外視察を大事に考えた。 | ||
(5)講演講習会 | 講習会、研修会が盛んに開催されました。 | ||
(6)同好会 | 認定講習が廃止され、同好会活動が活発に行われるようになる。 | ||
(7)免許法認定講習会 | 県教委は単位取得のための認定講習会を開始しました。 | ||
(8)刊行物の発行 | 24(1949)年に郷土資料双書第一集「統計集」が発行される。 | ||
(9)教研集会と教育会 | 54年以降は高教組との共催の姿勢はまったく見られなくなりました。 | ||
(10)週五日制と教育会 | 県軍政部(ケリー)の指導で23年より実施された。 | ||
(11)P T Aの結成 | 米国教育使節団の意向をもとに文部省が22(1947)年にPTA結成を勧奨した。 | ||
(12)信大統合問題と教育会 | 信大を総合大学として散在する学部を本部のある松本市へ統合する運動をおこしました。 | ||
昭和時代 | 14 昭和40年代50年代の松本市教育会はどのような活動をしたのでしょうか | (1) 教育会事業内容の大変革 | 現在の教育会の活動内容のルーツは昭和40年代にできたといえます。 |
(2)教科研究会から教科研修会へ | 社会変容や能力多様化に対する指導の必要が叫ばれ、授業と直結した研究が見直された。 | ||
(3)教育文化センターの設立 | 校長会、PTA連合会、教職員組合の同意も得て陳情がなされました。 | ||
(4) 松本市教育会百年誌の刊行 | 59年の3年間で1,200頁余の百年誌が会員の手によって編集されました。 | ||
昭和・ 平成時代 |
15 百周年以後の松本市教育会の歩みはどんなだったのでしょうか | (1)教育会の事業 | 松本市教育会百周年記念総集会が市民会館に於いて盛大にとり行われました。 |
(2) 委員会の新設 | 60(1985)年度に「自然委員会」「資料収集委員会」が新設された。 | ||
(3) 同好会の充実 | 平成4年度より、同好会独自の発足会を、同一日に同一会場で行うようになる。 | ||
(4)浅井洌遺稿集の刊行 | 平成元(1989)年9月に堀金泰教育会長より、浅井洌遺稿集の編集刊行が提案された。 | ||
(5) 百十周年記念行事の準備 | 平成5年度には「百十周年記念事業準備委員会」が特別委員会として発足した。 | ||
(6)教育会の今後の課題 | 平成5年度の「ありかた委員会」の答申より教育会のあり方をまとめた。 |
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