=昭和時代= 本市教育会にどのような影響を与えたのでしょうか |
昭和5年度の職員 松本小学校・松本実科中学校・松本幼稚園
松本市教職員はこの問題に対する態度について「一校か多校かは制度の問題ではあるが教育の本質にも触れるべき極めて重大な関係があるにも係はらず是に対して何等の定見も有しない」とか「ロを減じてはいないか」「上司を恐れて」「言っても大勢を左右し得ざるを見て」(信濃日報)など、はっきりしないことを批判されています。
(3) 一校制の成果
一市一校制の組織編成の中から、先進的な多くの成果が上がっています。このことは、松本市教育会への影響も大きかったと言えるのではないでしょうか。
まず併設校・文化施設の設置があげられます。例えば、明治34年の高等女学校(現蟻ケ崎高)、同37年の松本女子師範学校、翌年附属小学校、同41年には女子職業学校(現実須々ケ丘高)など松本市の女子教育の礎を築いてきています。また同20年には附属幼稚園(現松本幼稚園)、32年に子守教育所、41年劣等児特別学級、45年盲人教育所、大正5年裏町特別学級、同11年林間保育の開始、13年に柳町部に松本夜間中学校併設など、それぞれその特色を大いに生かしたものでした。
さらに、現在の松本市立図書館や日本民俗資料館の前身もそれぞれ開智書籍館、紀念館として松本小学校内に併設されました。これらの併設校・文化施設も一校制のなかから生まれてきたものでした。松本市の教育は松本小学校を中心に整備拡大し、充実発展してきました。
また、大正3年からの朝会後の運動の開始や、個別教授の研究、5年「理科実験観察の簡易機械」の製作、同11年の「児童文庫」の開設、「郷土誌」の編纂、昭和7年の「貧困児、栄養不良児に対する牛乳給与」の実施、さらに、体操、音楽、裁縫などの専科教員の配置など、先進的なことも一校制の組織の中から生まれたものでした。
(4) 一校制の弊害
しかしこの一校制は多くの弊害ももたらしました。その中でも教員の人事異動は大きな問題でした。それは、小里市長が松本小学校の教員異動に介入し、市長の息の掛かった若しか松本市の教員になれなかったことです。そのため松本市には市長という校長がいると言われるほどでした。 「この頃の松本市教育会界は、信州教育会からは陥没した時代だった」とか「市小学校の教員組織は、小里市長の好みが強く反映され、そのため郡部との接触を欠き郡部教育会と考え方の上で反目するような面も出てきたため、人事問題において孤立する結果となった」と後に言われています。
また、組織上からして各部の独自性が無視されることから形式化が起こり沈滞に陥り易かったとか、教育費の消滅などの好ましくない状況が起こってきました。
このような環境の中で松本市教育会は、会としての活動よりも松本小学校としての活動の方が中心になり、「教育会は、あってなきがものであった」と言われるように、一校制は教育会自体の活動を停滞させるものであった
と言えます。
(構内 千波)
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