=明治時代=
      2 松本市教育会はいつどのようにして発足したのですか

 

 

 

 

(1) 発足の年明治40年

 松本市教育会は明治40年12月19日に松本尋常高等小学校男子部で創立会が開かれて、その発足がきまり、翌明治41年4月26日の発足式からその活動が始まりました。
 明治40年というのは尋常小学校の義務教育が4年から6年に延長された年です。
 このころ、鉄道が松本から長野へも東京へも開通しました。郵便局の電話交換も始まりました。松本五十連隊も設置されました。そして永年の念願がかなって東筑摩郡松本町は松本市になりました。このときの松本の戸数は6,641戸で人口は31,866人でした。
 この明治40年5月1日の市制施行が松本市教育会の誕生につながったわけです。

(2) 松本市教育会の前身

 前項でふれたように松本市教育会の前身は、明治17年に東筑摩郡私立教育会の発足から始まりました。
 この会はこのころ盛んであった児童中心の開発教授法など日本国内で最も進歩的な教育を進める中心となった会ですが、このころの教育の様子を掲載した『東筑摩郡教育会雑誌』25巻は現在そっくり残されています。
 その後東筑摩郡教育会は東筑摩教育交絢会と変り、松本市が東筑摩郡から独立したので教育会も独立することになったのです。

(3) 松本市教育会の原点

 前記の松本市教育会創立会では松本尋常高等小学校、松本実業補習学校、松本幼稚園、長野県松本女子師範学校付属小学校等の教員が集まって次のことをきめました。
 会長  小里頼永(松本市長)
 副会長 三村寿八郎(松本尋常高等小学校長)
 議員、幹事もきめました。
 次に会則もきめました。
 第一条 本会の目的は教育の普及改進をはかる
 第四条 本会の事業は ①学事視察  ②教科の講習  ③会員の表彰  ⑥職務についての協議  ⑤ 教育に関係した演説と討議
 第七条 会合は ①総集会は毎年5月10月の第一日曜日に開く  ②議員会は会長が必要と認めたとき臨時に開く
 松本市教育会発足当時は松本市内の公私の教育機関が全部ふくまれているのですが、教育会員は全部で36名でした。この内の松本尋常高等小学校は教員60名中教育会員になったのは9名でした。これは15パーセントです。
 しかし、教育会は教育会員だけのものではありませんでした。この小人数の会員が総集会や講演会や講習会を企画し、教育会員以外の教員を招集して教育改進のリードをしていたのです。
 教育会の事業を収入面からみると、教育会員1人の会費は年間2円で計72円、信濃教育会補助が7円、松本市補助が50円ありました。
 36人の会費だけで松本教育を動かすことはおよそ無理ですから、松本市長でもある教育会長は、全体の4割に当る金額を市から支出させました。行政当局に依存したかたちで教育会は発足したわけです。
 支出面からみると、発会式関係を除くと年間事業で多く支出するものは春秋2回の総集会と夏期講習会の費用でした。これらの会は東筑摩教育会と連合で行われていました。しかし、しだいに両教育会の費用の折半が困難になってきたため連合の会は開けなくなってしまいました。他県への教育視察も積極的に行われていました。

(4)教育会の運営

 前述のように初代教育会長には松本市長小里頼永がなりました。これは県学務課の意向によるものでもありました。小里頼永は国会開設の請願委員、町会議員、郡会議員、県会議員、衆議院議員、町長を務めた政治のベテランです。松本市長になると同時に松本市教育会長になりました。そして階級制度の遺風の町部と新合併の村部とを融和して大松本市の建設をするために一市一校制を考え出しました。
 小里会長は教育会の運営にも熱心でした。
明治44年5月13・14日の両日にわたって行わ
れた郡市連合の春季総集会を例にして小里会長の活動ぶりをさぐってみます。

 第一日目

①開会の辞を述べています。

②ある会員が『教育雑感』と題して、「教育は
みだりに盲従すべきではない。」と会員演説をしたところ、小里会長は直ちに壇に上って「この演説を誤解しないように注意を望む。」と意見を述べています。
 
     小里頼永(左)と三村寿八郎

③協議のとき小里会長は自ら秋季総集会には職員運動をしてはどうかと提案して、賛成老に意見を言わせて、可決しています。

④閉会の辞を述べています。

 第二日日

①開会の辞を述べています。

②協議のとき自ら議長となり、教育倶楽部の設立、図書館の拡張、大博覧会出品の件などについて提案しています。

③閉会の辞を述べています。まだ会員演説が3名残っていますが時間の都合上見合わせるとも述べています。

 以上の様子からも松本教育の全面にわたる統率ぷりが想像されます。

(5)松本市教育会の特殊性

 小里会長は大正11年まで16年間その職にありました。その間、三村寿八郎副会長(松本尋常高等小学校長)とうまくマッチして、日本一の小学校教育を目指して松本市一校制を築いていきました。しかし松本市教育会は他郡市と隔離してしまい人事はこう着沈滞してしまいました。
                                           (小澤 昭一朗)