松本教育を支えた市内私立高校の創設者と理念

 エクセラン高等学校   創設者  土手内 務人 どてうち むりと 
 創設  昭和27年4月 
 昭和27年4月 長野県公認文化華道学院開校。
   28年6月 松本高等家政学校に校名変更。
   35年4月 昭和高等実業学校に校名変更。現在地に校舎移転。
  43年11月 学枚法人松本昭和学園設立認可。
    12月 昭和園芸高等学校設置認可。
 平成11年4月 エクセラン高等学校に校名変更。

 土手内は、大正5年現東筑摩郡四賀村会田に生まれる。全国各地を訪ねた土手内は、青少年の教育の大切さを確信し松本に教場を求めた。花いっぱい運動の提唱者小松一三夢の理念に共鳴し、その発祥・発展に参画することとなる。そして、「花を愛し、美を創造する豊かな感性を培うとともに、思いやりの心を育み、責任感の旺盛な実践力のある人材の育成」を建学の精神として、現在地に開校し、今日に至る。
 また、松本市教科等研修会では、長年にわたり植物栽培等に関する講師を努め、建学の精神を自ら実践している姿に多くのことを教えられた。

塚原青雲高等学校   創設者  塚原 善兵衛   つかはら ぜんべえ
 創設  昭和30年4月   
 昭和20年8月  松本市栄町に白菊高等洋裁学校設立。
   26年12月  松本女子専修学校と改称。
   30年2月  松本女尊高等学校と改称、認可。
   30年4月  開校式挙行。
   33年11月  塚原高等学校と校名変更。
   59年4月  青雲高等学校と校名変更。
   63年4月  塚原青雲高等学校と校名変更。

 塚原は、明治41年に生まれる。学徒動員で、陸軍航空兵少尉・中尉に任ぜられるが敗戦により除隊。焦土と化した日本の再建を思い、塚原学園建設の緒につく。「教育を通して人間を作る」をもとに、質実剛健・自主独立を建学の精神とする。学園傘下に塚原高校・天竜高校を置き、特に高校野球に情熱を注いだ塚原の姿は有名であった。以後、学園は幾多の困難等を乗り越え、今日に至っている。

松商学園高等学校   創設者  木澤 衆人
 今井 五介
 
 きぎわ つろと
 いまい ごすけ
 創設  明治31年  
 明治31年8月  木澤鶴人が、自宅の一部を改造して、私塾「私立戌戌学会」を創立。
 明治44年10月  経営危機を救うため、今井五介が経営に参加。米沢武平を校長に迎え「松本商業学校」に改称。
 昭和11年  現在地に85万円の巨費を投じ校舎新築。「東洋一」と称せられる。
 昭和23年4月  学制改革により、松商学園高等学校に校名を変更。

 木澤は、16歳で単身上京し、漢学塾、東京物理学校、国民英学会、東京簿記専修学館で学習し、21歳の時に慶応義塾の文科に入学。ここで、自主独立の精神、帳合之法、英語、珠算、近代の学問を吸収、明治31年に松本に帰り、私塾の開設に私財を投じてとりかかるが、財政に困窮。 今井は、片倉製糸の三代社長であるが、若くしてアメリカに留学、紳士道と学問(近代科学)を重視した。木澤の自主独立の精神を基本にして、紳士養成をも建学の精神にしている。そこで、次のような教育の根本を定めた。
○自主独立の精神を養うこと
○真実と勇気をもって生きる態度を養うこと
○明朗な心と強健な身体を養うこと
○勤労を尊び豊かな適応力を養うこと
○職業を通じ社会に貢献する心構えを養うこと
今井と米沢のコンビで、学園の基礎がようやく固まり、今日に至っている。

松本松南高等学校   創設者 片倉 東大郎(三代)
今井 五介
 
 かたくらかわたろう
いまい ごすけ
 創設  昭和16年  
 昭和16年4月  松本女子実業学校開校式挙行。
 昭和23年3月  県知事より松本松南高等学校設置の許認可。
 昭和28年4月  校舎増築、体育館竣工。
 昭和45年10月   新校舎落成。

 本学は、片倉・今井ら片倉家が、男子高校であった松本商業学校に次いで、その姉妹校として女子教育を目指し、現在地に移転した松本商業学校の跡地に設立。「自主独立の精神に徹する円満な家庭婦人育成のための完成教育」を建学の精神とする。生活での「自立自営」、勉学での「自学自習」、道徳での「自律自戒」、技能での「創造錬成」を柱に据えた。
 片倉は、今井らと共に創立時の昭和16年2月から22年1月まで初代理事長として経営に参加し、片倉財閥の経済力を背景に本学の基礎を作った。昭和20年12月片倉財閥は解体となり、片倉は「今後経済的援助は出来ぬ」と苦渋の宣言をすることとなる。以後、物価の高騰、学制の改正と幾度かの危機に見舞われながらも、理事会や同窓会・職員の努力により今日に至っている。

松本第一高等学校   創設者 植原 悦二郎  うえはら えつじろう
 創設  昭和33年  
 昭和33年1月  植原悦治郎信濃高等外語学院を創立。松本高等外語学院を吸収。
 昭和35年2月  外語学園本郷高等学校設置認可。
    4月  開校。
 昭和59年4月  校名を松本第一高等学校に改称。制服変更

 植原は、現南安曇郡三郷柑明盛に生まれ、16歳で上京。後に渡米し、ワシントン大学を経て、ロンドン大学で学位を取る。帰国後、明治・立教両大学の教授を歴任。大正6年に衆議院議員に当選後、在職34年。戦後、吉田内閣の国務大臣、内務大臣を務める。
 昭和31年4月白板に開校した松本高等外語学院は、翌年には財政危機に陥る。崩壊の危機を救うため、植原が乗り出して吸収。自身の経験を元に「世界に通用する国際人の育成」を目標に、現在に至る。そのため、現在でも植原の願いを受け、入学式・卒業式で必ず国連旗を掲げている。